「天ぷら」「そば」「寿司」「うなぎ」は、江戸を代表する「食」と言われ、それぞれが江戸の庶民文化の中で培われてきました。このコラムでは、そば店の店主として、そばにまつわる面白い話や、一般的には知られていないそばにまつわる意外な事実などをお伝えします。そば文化をより知っていただくきっかけになれば幸いです。
※当コラムは「芝大門 更科布屋」の店内で、月に1話、お客様に配っているリーフレットから転載しております。
江戸で蕎麦が流行った3つの理由
言い古された言葉ですが、「関東のそば・関西のうどん」は皆様もよくお聞きになることと思います。
今回は私の推測も加えてその謎解きといきましょう。
日本全国で栽培され食されていた蕎麦が「江戸」と言う一つの特定地域で持てはやされ、一つの食文化にまで花開いたのには訳があると思われます。食道楽と称される大阪ではなく、何故江戸だったのでしょうか?
想像するに特筆すべき大きな理由は以下の3つではないかと思います。
一、江戸で開発された脱皮・製粉技術の進化
二、百万都市江戸の繁栄と生活習慣
三、江戸患い(脚気)の蔓延
それぞれの理由の詳細について
上記3つの理由をさらに詳しく見ていきます。
まず寒冷にも強く、荒地でも容易に生育する上に種子を蒔いてから75日で収穫ができる蕎麦は、米の作柄が凶と出てから種を蒔いても何とか切り抜ける事ができると重宝がられ、全国で食べられていました。
その上、江戸で脱皮・製粉技術の向上が成された結果、現在のようなツルツルとした細長い「蕎麦切り」が誕生し、食べやすさが格段に良くなり、田舎蕎麦に代表される黒く短い蕎麦とは違った「江戸蕎麦」が出現する事となりました。 皮の混じらないそば粉は食感だけでなく製造を楽にし、商いに適した蕎麦を生み、蕎麦屋の店数も飛躍的に伸びたと思われるのが第一の理由です。
第二の理由として、櫓の上に登れば見渡す限りの町並みが広がり百万都市と言われた「江戸」には、「宵越しの銭は持たねぇ」というせっかちで気前のいい民衆がおり、その民衆は宵越しの銭がいらないくらい毎日の仕事があった訳で、毎日忙しく働き続けておりました。
その人たちはゆっくり食事を取ると言った生活習慣はなく、チャチャっと手軽に食べられるものを探していたため、技術革新で長くなった蕎麦はあっという間に江戸に広まったと考えられています。何故ならば箸を使う日本人が最も早く食べる事が出来る食材の形状は、手繰りこんで吸い込む様に食べる事が出来る麺状だったからです。
第三にあげた理由は、蕎麦にはビタミンB1が含まれており、当時「江戸患い」と呼ばれるほど流行していた脚気を防ぐ効能があり、民衆は自然の本能でそんな蕎麦を嗅ぎ分けて食べた様に思えます。卵と鶏の例えではありませんが、推測したこれらの理由が同時期に同一地域江戸で相まって相乗効果を生み出した結果が、江戸蕎麦隆盛の原因となったと考えられます。
統計によると19世紀中期に江戸府内にあった蕎麦屋の数は3,763店、平成3年調査の東京都5,400店余りと、比較いたしますと町の広さといい、人口といい、現在の1/10以下の範囲に70%の数の店がひしめいており、現在の約7倍の店舗数の感覚であったと思います。さらにこの他に時代劇でお馴染みの屋台も含めると(数の特定が出来ないのですが)至る所に蕎麦屋が存在した江戸の町並みが目に浮かぶ次第です。