「天ぷら」「そば」「寿司」「うなぎ」は、江戸を代表する「食」と言われ、それぞれが江戸の庶民文化の中で培われてきました。このコラムでは、そば店の店主として、そばにまつわる面白い話や、一般的には知られていないそばにまつわる意外な事実などをお伝えします。そば文化をより知っていただくきっかけになれば幸いです。
※当コラムは「芝大門 更科布屋」の店内で、月に1話、お客様に配っているリーフレットから転載しております。
甲斐の国から江戸に伝わった「そば切り」
今では「江戸蕎麦」と呼ばれるほど、江戸時代に蕎麦が流行った訳ですが、そもそもどのように江戸へ蕎麦が伝わったのでしょうか。
まず、一般的にもなじみのある麺状になった「そば切り」の蕎麦でいえば、この言葉の初見はこれまで「近江多賀神社」の慈性なる僧侶が慶長十九年(1614)に記したとされていました。しかし、平成4年に長野の郷土史家・関保男氏が木曽郡大桑村の「定勝寺」の古文書から見つけた記事によってその歴史は塗り換えられることになります。その古文書によれば、天正2年(1574)の修復工事の折の寄進台帳に「振舞いそば切り」と言う記録があり、現時点での文献にみられる最古の例となりました。
さて前年の天正元年は甲斐の武田信玄が上洛途中に没した年、8年後天正8年には西から織田信長・南からは徳川家康が甲斐に攻め込み、武田を滅亡させる訳でありますが、この際信濃・甲斐と言うそば切りの里を大勢が通過し必然的にそば切りに出会う機会があったと思われます。
ちなみに武田家終焉の地「天目山」はそば切り発祥の地ともされているそうで、元禄年間に尾張徳川家家臣、天野信景が書いた書物には「そば切りは甲州より始まる、天目山参詣の時そばを練りて蒸篭とせし、その後うどんを学びてそば切りと成すと信州人語りし」となっているそうです。
話を進めて天正18年になると、徳川家康が関東へ国替えとなり江戸の入府、寒村だった江戸の隆盛が始まる事となりますが、家臣と共に江戸勃興の労働力として失職した下級武士や荒廃した田畑から逃れた農民が江戸に集まる事となりました。人が集まればそこに商売が発生するのは自然の法則で、飲食店もその一つ、蕎麦もその中に入って行くこととなった訳です。
戦国時代から江戸時代を駆け抜けた「そば切り」
平成4年のそば切りの起源の新しい発見は、「江戸蕎麦」が甲斐の国と言うそば切り発祥の地を土壌とし、武田信玄という有力武将の死を発端に、それを攻め滅ぼし、後に国替えの憂き目を乗り越え江戸幕府を開く徳川家康の存在を踏み台にして生まれてきた流れに物語性を与える気がいたします。
戦国乱世から太平の御世への移り変わりが、一つの地方食であった「そば切り」を日本食の代表の一つに押し上げていくと言う物語は推論ではあるが誠に面白いと思われる次第です。もし「そば切り」発祥が東北だったら、武田信玄が天下を取っていたら、幕府が江戸でなかったら「江戸の蕎麦」は勿論のこと、蕎麦が日本食の代表の一つになったかどうか、我々が蕎麦屋を商えていたかどうかも疑問符となるように思えます。