「天ぷら」「そば」「寿司」「うなぎ」は、江戸を代表する「食」と言われ、それぞれが江戸の庶民文化の中で培われてきました。このコラムでは、そば店の店主として、そばにまつわる面白い話や、一般的には知られていないそばにまつわる意外な事実などをお伝えします。そば文化をより知っていただくきっかけになれば幸いです。
※当コラムは「芝大門 更科布屋」の店内で、月に1話、お客様に配っているリーフレットから転載しております。
江戸蕎麦に欠かせない海苔の歴史
蕎麦屋にとって欠かせない食材の一つが海苔です。
この日本を代表する食材の一つでもある海苔の歴史は長く、飛鳥時代まで遡るもので「大宝律令」にも朝廷に納める年貢の一つとして海苔類が登場しています。
もともとの呼び名は海や川で岩などに付着して生息する藻類を指す「ヌラ(ぬるぬるする物)」であり、それがなまって江戸時代に「のり」と呼ばれるようになったそうです。海苔がその時代の江戸の特産品になったのは海苔好きだった将軍家康公に献上する為に隅田川河口の浅草周辺の海で採取されたのが始まりで、その後この地域が禁漁となった事で品川や大森に移りやがては簡単な養殖に発展していったとされています。
海苔と言えば「浅草海苔」と言う名称がつとに知られる所でありますが、今お話したこの経緯がその理由の一つとなっています。
命名の諸説は他にも色々ありますが、いずれにせよ江戸湾で採れた海苔が御用海苔として幕府に献上され、さらには浅草周辺の問屋に買い取られ、浅草寺の門前市で売られ、江戸庶民の食する所となったとのことだそうです。
板海苔の登場と海苔を使った蕎麦メニューの誕生
この庶民が食し始めた「浅草海苔」は紙漉きの要領で海苔を細かく刻んで、すのこに流し込んで漉いた四角い海苔の事で江戸中期に登場した物であります。
この海苔が現代まで受け継がれている海苔の形の原型「板海苔」で、軽くて保存がきき、しかも安くて上手いと言う事で江戸土産としても大ヒット、全国へも普及したと考えられています。
またこの板という形状によって「海苔巻き」が誕生し、寿司の世界ではバリエーションが格段に増えました。
しかし我々蕎麦屋にとってのこの時代の海苔は、精進物しか食べない人に蕎麦を勧める際に添える薬味の一つ程度の位置づけで、板海苔を筒状に丸め、端から葉煙草を切る様に細切りにし、これを紙の上に広げ、火でよく炙って乾かすという品であったと言う記述が『蕎麦全書』という江戸中期の蕎麦の本に記されています。
少し時代が進み江戸後期の安政年間になって「かけ」の上に、もみ海苔をのせた「花巻」が商品化され、蕎麦と海苔の美味しさの融合が初めて登場しました。ちなみに花巻の「花」の語源は浅草海苔を「磯の花」と称した所からきております。
現在のように細切りやもみ海苔を「もり」の上にかけた「ざる」は明治になって考え出された物です。もり用の汁よりコクも味もずっと濃厚な汁を蕎麦に添えるのが老舗の決まり事でありました。
現在の当店は、その「ざる用」の濃厚な汁を全てのせいろに添えております。さて江戸前で採れる浅草海苔は海の変化や病害に弱い難点があり、現在は絶滅危惧Ⅰ類に分類されております。今浅草海苔として売られている海苔は、成長が早く収穫量も多い別の種類の海苔で主に有明海で生産されているものです。