Tokyo

05/10 (金)

【第5回】東京から静岡へ 蕎麦店の系譜と受け継がれる蕎麦作りの伝統

「天ぷら」「そば」「寿司」「うなぎ」は、江戸を代表する「食」と言われ、それぞれが江戸の庶民文化の中で培われてきました。このコラムでは、そば店の店主として、そばにまつわる面白い話や、一般的には知られていないそばにまつわる意外な事実などをお伝えします。そば文化をより知っていただくきっかけになれば幸いです。

※当コラムは「芝大門  更科布屋」の店内で、月に1話、お客様に配っているリーフレットから転載しております。

江戸(東京)から駿府(静岡)へ伝わった江戸蕎麦

当店は、増上寺の参道にあり徳川家と縁のある土地柄です。実は、江戸幕府の終焉を期に将軍徳川慶喜が江戸城から移り住んだのが静岡駿府城であり(江戸城・駿府城いずれも徳川の居城)、将軍の移転により多くの家来衆と共に、城下を形成する多くの職種の町人が駿府へと移り住む事になりました。


当時江戸に3,200軒あったとされる蕎麦店と職人たちも例外ではなかったと思われます。
特に慶喜公が蕎麦好きという事もあり、江戸の評判店が静岡へ下ったのではないかと推測されているのです。


東京の暖簾横断の老舗蕎麦店の会「木鉢会」にも静岡のそば店が入っており、昔からの蕎麦店の繋がりが東京と静岡にはあるようです。


江戸で花開き受け継がれてきた江戸蕎麦とその技術ですが、江戸独特の蕎麦打ち技術である3本の延し棒を使う方法が、実際に静岡の老舗蕎麦店でも用いられています。昨今のように技術交流の盛んな時代でないにもかかわらず、5代も続くそのお店で同じ技術が受け継がれている事は江戸からの移転と考える方が妥当であるような気がします。


余談になりますが、当店の家伝「更科そば」や「変わり蕎麦」にしても同じ更科一門のなかで作り方の違いがあります。技術は教わったとおりに実践し受け継がれるものであることを考えると、作り方によってお里がはっきりするもので、その技術の系譜でその蕎麦店の歴史が明確となるように思われます。

奥深き江戸蕎麦の技術伝播

話を戻しますが、前述の静岡の蕎麦店のご主人と話した折に 蕎麦打ち技術のみならず「そば汁」の作り方にも当店と似通った点が多々ある事に気づきました。
当店のそば汁の作り方は、東京都内の藪さん・砂場さんといった老舗でも昨今はされていない最も古い形の作り方ですが、それが300km離れた静岡で同じ形で受け継がれている事に驚いた次第です。


味は違えど同じ系譜。江戸蕎麦の技術とは実に奥深く面白いものなのです。
発祥地では時代に合わせて変化し、移転地では原形を留めるというのは、自然界の進化にも似た動きのような気がします。


全国各地の蕎麦店の技術の系譜を考えると、また違ったお蕎麦の楽しみ方が生まれるかもしれません。
老舗を受け継ぐにしても新店を開くにしても修行が必要な訳ですから、蕎麦世界の中心地でもある東京の江戸蕎麦の技術が広まっていく事は今後も続くように思われます。


そう考えると最近は、うどん文化の大阪でも江戸蕎麦が市民権を得て、鰹節だしで醤油が濃厚な江戸のそば汁が数多く見受けられます。都内でも地方でも「修行はどこでしたの?」という質問はお蕎麦の面白い切り口かもしれません。

金子栄一さん

芝大門 更科布屋 布屋萬吉こと7代目ご当主

この記事を書いたのは...

寛政3年(1791年)、薬研堀(現在の東日本橋)で創業。大正2年(1913年)から増上寺門前にお店を構えるそば店「更科布屋」の7代目ご当主。芝の地で創業100年以上の伝統を有する老舗の会「芝百年会」の会長も務める。

更科布屋ホームページ

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