Tokyo

11/21 (木)

第2回:川でたどる江戸時代から平成の京橋・銀座

ちょっと油断すると街のかたちを変える東京。この間までなにかが建っていた場所が更地になることは少なくなく、「前はここ、あの店だったよな」なんてちょっと切ない気持ちになりながら思い出をたどってみたり、あるいは毎日通ってた場所なのに何があったか全然思い出せなかったり。
一方で意外に古いものが残っていて、いい感じに味を出していたりする建物も多いもの。

そんな東京の街を江戸時代の地図を頼りに歩いて変化と不変、維持と痕跡をたどって楽しむのが古地図で江戸散歩。古地図を頼りに街歩きをするツアーの先駆者である歩き旅応援舎のガイドさんと一緒に、東京の街を巡る。第2回のテーマは川でたどる京橋・銀座。

銀座にはその昔4本の川が流れていた

銀座といえば、すぐに連想されるのは百貨店に世界の高級ブランドの路面店、老舗の一流店に歌舞伎、伝統工芸……。歴史を持ちつつ、つねに新しさも兼ね備えた大人な街というイメージだが、今回一切そうした銀座は出てこない。何せスタート地点がここ。

現在のランドマークを示すならば「日本橋兜町駐車場」の前、上を走るのは首都高環状1号線ということになる。今回案内してくれた歩き旅応援舎のガイド・星野多慧さんによると、江戸時代にはこの界隈に4つの川が流れていたのだそう。

「この地図の中央、右から左へ流れるのが『楓川』(かえでがわ)。現在の首都高の真下、今でいう江戸橋ジャンクションから京橋ジャンクションあたりにかけて南北に流れていました。そこへ江戸城の外堀から流れ込むのが『京橋川』。さらにこの付近から江戸湾に流れ出ているのが『八丁堀』。これら3つの川が交わったポイントから、さらに南に流れるのが『三十間堀』(さんじっけんぼり)でした」

今回、われわれは楓川に沿って南下し、銀座の川の痕跡をたどっていくのだ。

水路跡のスタート地点は日本の金融発祥の地

では、再びスタート地点。われわれが佇んでいたのは、「日本橋兜町駐車場」の前だったが、同時に楓川にかかる「海賊橋(かいぞくばし)」のたもとでもあった。海賊とは、いわゆるパイレーツではなく、江戸時代の海軍の意味。海軍のトップだった向井将監忠勝(むかいしょうげんただかつ)の屋敷が橋の東詰におかれていたことにその名は由来する……と、橋の碑の説明書きに記されていた。

ちなみにこの碑は、明治になって架けられた石橋の親柱(欄干の端にある、橋の名前を記した大きな柱)だそう。

「かいうんばし(海運橋)」とは明治以降の名前で、橋自体も木造からアーチ型の石橋に架け替えられたそう。その石橋も関東大震災で破損し、昭和2年に鉄橋に架け替えられ、昭和37年には楓川そのものも埋め立てられたのであった。

「そしてこのあたりは明治時代以降、金融の中心街として発展しました、ホラ」と星野さんが示した先を見ると、ビルの壁に大河ドラマでも話題だったこの方の写真が……。

日本最初の銀行「第一国立銀行」を渋沢栄一が設立したのがこの場所だったのだ。すぐ先には東京証券取引所があり、その真向かいには渋沢栄一邸があったそう。徒歩数分で会社に行けて、うらやましいような大変なような……。

ついでにこちらは、ここから少し下ったところのビルの谷間にひっそり佇む小さなお社。でありながら、非常に清浄な雰囲気で、昭和41年の招木には大手金融機関の名もズラリと並ぶ。

ひょいと覗けば今も残る川だった痕跡

星野さんによると、昔の地形の痕跡を見つける秘訣のひとつは「隙間を覗くこと」らしい。試しに今いる場所で高速道路とビルの隙間を見てみると、こんな石垣が目に入った。

「護岸されていた跡です。かつてはここに川が流れていたって、よりはっきりイメージできますよね」

そしてもっと明らかに“橋”が残されている場所もあった。それは首都高が永代通りと交差する「千代田橋」。

海賊橋から約1ブロックほど南下したあたりで、見てのとおり、高速の高架と片側2車線の道路が交差し、高速の下にはレンタカーの事務所やコンビニが営業している。

「この橋は江戸時代にはなくて、関東大震災後の復興計画の一環として、大正15年に今の永代通りを通すときに架けられたものです。千代田橋は、橋げたと橋脚が残っているのが見どころです」

なるほど。と、隙間をのぞき込んでみると……確かに橋の痕跡が残っている!

 

ちなみに、楓川が埋め立てられる前の千代田橋の写真がこちら。

 

「ラーメン橋台橋」という構造で、両側の河岸と接する橋台を鉄筋コンクリートでつくり、それらをつなぐ橋げたを鋼で製造した珍しい形式らしい。

「これだと使用する鉄骨が少なくてすむんです。関東大震災からの復興のタイミングで架けられたので、素材不足ということもあり、こうした珍しい構造になったようです。この形式で残っている現役の橋は、この付近では日本橋川にかかる『一ツ橋(ひとつばし)』だけになってしまいました」

同じく関東大震災からの復興の際、公的な計画として橋の袂には広場(橋詰広場)がつくられた。大きな橋の河岸と交わる四隅に広場が設けられ、派出所・公衆便所・消火のためのポンプが配置されたのだ。千代田橋の袂にも、このように草木が植えられ、広場だった痕跡が残っている。

「今は川が埋め立てられた場所でも、通りの四隅に交番やら広場やらトイレがあれば、“昔この下は川だったんだな”って想像することができます。あと、トイレが必要なときに覚えていて損はないですよ」

都心の高速道路はなぜ川の上を通っている?

さらに楓川だった通りに沿って南下していくと、八重洲通りと首都高が交差する「久安橋(きゅうあんばし)」に出た。このあたりまで来ると、高架だった首都高が、いつの間にか地上よりも低い位置を走るようになる。

「江戸時代の地図では『越中橋(えっちゅうばし)』がこの付近にありますが、当時は松平越中守の上屋敷の門前にかかっていたことに由来します。今の名前は、この近く拝領地のあった江戸城の御坊主・久安にちなんでいるようです。関東大震災の復興事業で、八重洲通りをつくる際に少し位置をずらして架け替えられ、名前も変わりました」

橋の下を通る首都高を見下ろすと、まさに川のようだ。それもそのはず、実は首都高の多くは、川の上や、かつて川だった場所を通っているのだという。

「その理由は、川には地権者がいないからです。昭和39年の東京オリンピックの開催に向けて、急ピッチで首都高の開発は進んだのですが、その際、土地を買収する必要なく工事を行えるために、川を埋め立てて高速道路を通しました。首都高の一部にグネグネと曲がりくねった場所があるのは、川の流れに沿ってつくられているからだと言われています」

さらに下ると、高速がまた高架に戻っている。そしてこの「弾正橋(だんじょうばし)」が楓川の最後の橋となる。

このあたりで、江戸城の外堀から流れてくる京橋川が楓川とつながり、さらに西側の八丁堀から江戸湾へと流れ込んでいた。

ちなみに、必殺シリーズの中村主水などがよく「八丁堀の旦那」なんて呼ばれていたのは、江戸時代に与力や同心(下級武士や下級役人)が暮らす町奉行所の組屋敷が、この八丁堀の北側にあったことに由来するらしい。

東銀座を南北に貫いていた三十間堀

京橋川・八丁堀と合流するあたりで楓川は終わり、その先の「三十間堀」へとつながる。

「弾正橋」は、今もその痕跡を残しているが、これとあわせて「三つ橋」と呼ばれていた京橋川の「白魚橋」と三十間堀の「真福寺橋」は路肩の看板に記録が残るのみ。

「『三十間堀』の三十間とは川幅を示していて、今でいうと約54m。江戸の中心にあり、荷の上げ下ろしをする『河岸』がいくつもあって、物資を輸送する重要な水路として使われていました。江戸時代には起点に大きなクランクがありましたが、明治の後期には水谷町に水路を掘り、直接京橋川と合流するよう改修されたんです」

こちらは、そのときに架けられた「水谷橋」の橋詰の「水谷橋公園」。もともと公園があった場所にビルが立っており、1F〜3Fは認可保育所、屋上が中央区立水谷橋公園となっている。

関東大震災の復興事業に倣って、立派な公衆トイレを備えた平地の公園が運用されていたが、2018年に現在のかたちに改修された。ビルになってもやはりきちんと1階に24時間使える公衆トイレを完備。

建物の左に見えるのが銀座一丁目の首都高銀座出口。ここが三十間堀の、いわば起点だ。ちょうど昭和通りと銀座中央通りの中間あたり。ここから新橋(を流れていた汐留川)まで、幅50m以上の川が流れていたなんて驚きだ。

“薄いビル”がおしえてくれる三十間堀の名残

埋め立ては、太平洋戦争のあと、東京の瓦礫処理と土地造成のために昭和20年代に完了したという。だが、高速道路と違って川の名残は分からない。「もともと川だったんですよ」といわれても、目の前に広がるのは普通の銀座の裏路地。ところが、ここに「元・川」のヒントがあるのだという。

「真ん中の建物を見てください。通りに面してビルが建っていますが、ちょっと“薄い”ですよね? で、裏側にも隣接して建物があります。三十間堀は川幅が非常に広いので、川をまるまる道路にしたのではなく、左右を宅地にして、周囲の路地の幅と合わせた道にしたんです」

こちらが現地で行われた図解。

この図に「川」と書いてあるのがもともとの三十間堀。幅約54メートルの川はすべて埋め立てるのだけれど、中央だけを通りとし、左右に宅地を造成してビルを建てたのだという。だから三十間堀の埋め立て地沿いの建物は、総じて“薄め”らしい。

三十間堀の跡をたどって南下し、松屋通りに出合ったときにあらためて実感した。今回、華やかな銀座カルチャーには一瞬たりとも触れていないのであった。だが、これまで来たことのある銀座では得たことのない体験をしているのであった。

ビルの薄さで川の名残を知る……だなんて、デパ地下や文房具屋さんを巡る銀ブラでは絶対わからないのである。そしてまたそこに川の名残。

おしゃれなコーヒー専門店と、店の入っているビルにある「朝日稲荷神社」。コーヒー専門店はまさに川の名を冠している。神社のほうは、もともとこのあたりにあった神社が安政の大地震で三十間堀に沈んでしまったのが、大正6年の大海嘯(かいしょう…海から潮が川を津波のように遡る現象だそう)で、“霊体”が再び三十間堀から姿を現し、その後いろいろあってこの建物の屋上に祀られることになったと、神社の説明書きにあった。

そして、晴海通りに出るとそこは「三原橋」。

交通量の多い通りの東に目をやれば歌舞伎座、西側には三越に和光。おお、ようやく銀座らしい銀座に到達した。

「ここには以前、三原橋という橋が架かっていました。三十間堀の埋め立て後は、旧三原橋を再利用して三原橋地下街が作られ、通りの南北にはビルが建ち、後に映画館が入って、地下街自体は2014年まで営業していました」

古地図と今の街のあり方との差分は結構大きくて、でもそのなかに江戸の痕跡を見つけられるのが楽しい。のだけれど、三原橋にあった「シネパトス」という映画館は、ご存知の人も少なくないだろう。「江戸と今」だけでなく、「昭和と今」「平成と今」でも、街はぐんぐん変わる。そしてその痕跡を楽しむこともできる。

というようなことを、華やかな銀座のイメージとは縁遠い川の跡を巡りながら知った旅なのであった。

取材・文/武田篤典(スチーム)
写真/大久保 聡
取材協力/歩き旅応援舎

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