古典から詩歌、エンターテインメントまで、東京には文学にまつわる場所がたくさんあります。作品の舞台だったり、作品に盛り込まれた地名だったり、作家の住居跡だったり、文学上重要な運動が発生した場所だったり……。そうしたいわゆる“聖地”を書評家/ライター/文学系YouTuberの渡辺祐真(スケザネ)さんにセレクトいただき、ご紹介するコーナー。
スケザネさんの文学系スポット解説と、実際に街巡りをした現地レポートを合わせてお届けします。
今回は、下北沢。ロックと演劇と古着の街は、実は文学の街だったりもするのです。
渡辺祐真さん
書評家、書評系YouTuber
文学散歩ナビゲーター
東京のゲーム会社でシナリオライターとして勤務する傍ら、
世界的シティガイド「TIME OUT」でも高評価された下北沢
「TIME OUT」は、1968年にロンドンで創刊され、世界35カ国40都市に展開するシティガイドだ。そんなメディアの「The 51 coolest neighbourhoods in the world」2022年版で下北沢は世界7位にランクインした。世界中のイケてる都会人2万人と、各の専門家にもヒアリングしたランキングで、おいしい食事に様々な娯楽、文化的にも充実していて、コミュニティにとって重要な場所だという点が評価されたらしい。ちなみに世界一はメキシコ、グアダラハラのコロニア・アメリカナという街だ。なおシモキタは日本一、まあそれもさもありなん。
今回のスタ―ト地点である小田急/京王下北沢駅に降り立ったとき、「ここはどこだ!?」というのが取材陣の率直な印象だった。というのも、半年ほど前と比べても駅前の広場の整備度合いが大きく異なっていたからだ。
そして、歩を進めたのが下北沢南口商店街。ブラブラ歩くと建物やテナントが変わっているところは多々あるのだが、街の総体的な見え方は、知ってる下北沢と変わりない。劇場があり、ライブハウスがあり、レコード店があり、古着屋があり、喫茶店がある。で、そうしたカルチャー&ファッション的な構成要素以前に、下北沢は個性的な古書店のある街でもあったらしい。戦前に有名店があったのが、この緑の建物のあたり。
2004年のサインが入ったシャッターアートの前にはビールとサワーの空き缶が捨て置かれているのも、その向かいの角にシュロの木がそそり立ち、庚申堂がキレイに保たれているのもなんだか下北沢っぽい。
曲がり角ごとに刻々と変わる街の風景
だが、下北沢南口商店街を抜けると風景は一変する。複雑に入り組んだ六叉路の先、タモリやサザンオールスターズも出演したという老舗ライブハウス「下北沢ロフト」から向こうは対面通行の道路。マンションや民家がどんどん増える。さらに代沢三叉路で突き当たって茶沢通りに出ると、住宅街ムードが一層強くなる。
商店街では歩行者が主役なイメージだったが、茶沢通りは交通量も多く、歩道は車道と完全に区分けされる。歩道をてくてく歩き、駅から10分ほどで北沢川緑道の桜並木に到達する。茶沢通りと緑道の角にあるのが、代沢小学校だ。
坂口安吾勤務先(代沢小)&文学碑
坂口安吾は、大正14年から1年間、荏原尋常高等小学校(現若林小)の下北沢分教場(現代沢小)の代用教員を勤めた。当時20歳の安吾は、子供たちから「あんこ先生」と呼ばれ、親しまれていたようだ。
「風と光と二十の私と」には「私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原えばら郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。」という記述がある通り、当時のことを振り返った内容になっている。
なお、このレンガ造りの門柱は、昔の学校のものではなく、大田区にあった旧坂口安吾邸から移築されたものだ。
昭和の時代、数多くの文士が居を構えた“下北沢文士町”
安吾の門柱と文学碑を横目に北沢川緑道を進む。川は完全に暗渠となるが、緑道沿いにせせらぎが再現され、桜並木が続く。ここで、またもや風景は一変。石畳で設えられた車道に沿って、建築にこだわった瀟洒な家々が立ち並ぶ。
緑道を歩いて行くと、交差する道路ごとに、中下橋、一本橋、稲荷橋、山下橋と、かつての橋の名が残されている。そして緑道沿いにある碑を見ることができた。
横光利一文学顕彰碑
明治維新以降、日本は西洋から様々な文化を輸入していた。明治、大正を通して、伝統よりも新しい西洋文明を学ぶことに終始していたが、関東大震災やその後の不況により、自らの拠って立つ基盤を見失ってしまう。
そのとき、文学者たちにも大きな動きが広がる。ある者はプロレタリア運動に身を投じ、またある者は機械文明をそのまますくいとるべく新しい文学潮流を生み出した。それを「新感覚派」と呼び、その旗手が川端康成、そして横光利一であった。
横光が北沢に越してきたのは昭和三年だが、ちょうどその前年に小田急線が開通し、一帯が開発され始めていたころだった。横光は自然と文明がせめぎ合うこの地で、新しい文学を模索していたのだろう。
なお、この碑の足下には2枚の石が敷かれているのだが、これは「雨過山房」と名付けられた横光邸の玄関に通じる石畳の“鉄平石”を用いたもの。菊池寛や川端康成もその上を歩いたという石畳の現物は、ぜひ現場でご覧ください。
で、さらに緑道を進むと、「下北沢文士町」なるマップを発見した。今回のエリアを抜粋してみよう。
下北沢文士町
昭和二年の小田急線開通、昭和八年の帝都線開通を契機に、下北沢には若者が多く住むようになり、その中には文士志望の者も少なくなかった。
そのため、下北沢一帯には数多くの文士が住んでおり、「下北沢文士町文化地図」を見ると、文士たちの旧居が綿密に記載されている。
例えば、森巖寺の北側には、戦後間もない頃から数年北沢に住んでいた石川淳の旧居跡があり、その近くには大岡昇平や坂口安吾の旧居跡がある。石川は無頼派と形容される通り、既存の体制に対して唯々諾々とは従わない気骨にあふれた作家で、同じく無頼派とされ、同地に居を構えたことがある坂口安吾のことも強く買っていた。彼らは実にパンクな存在だったのだ。
若者の街と呼ばれる下北沢は、今に始まったことではない。
なるほど、演劇やロック以前に文学ありき。
われわれがさきほど通り過ぎた代沢三叉路の近くには石川淳邸があったらしい。そして加藤楸邨があり、森茉莉が「アパルトマン」と呼んだ木造アパートもこの近くにあったのだ。アパートは同じ名を冠したマンションになっているが、彼女が毎日入り浸った喫茶店はまんま残っているようなので、散歩の一休みにぜひ。
最後は演劇の街・シモキタの象徴「本多劇場」へ
北沢川緑道を、かつての福寿橋のあたりで左に折れ、住宅街に入っていく。石川淳といい、大岡昇平といい、森茉莉といい、戦後から80年代まで活躍したような現代の作家たちにも親しめるのが下北沢文学散歩だ。
そして、次にわれわれが目指したのが、かつてテレビでもよく観たし、コスメブランドや着物デザインなども手がけていた、この方の旧居跡。
宇野千代旧居
1897年生まれで、小説家、デザイナー、実業家など幅広い顔を持つ先進的な女性である宇野千代。
恋多き女性としても知られ、結婚と離婚を四回も繰り返していたが、その度に家を建て替え、「数えて見ると、十一軒建てた勘定になる」と言うほど。その一軒が世田谷区淡島にあった。
そのときの恋人は洋画家の東郷青児で、宇野の代表作『色さんげ』の主人公は東郷がモデルになっている。『色さんげ』を指して、宇野は「私の書いたものの中で、一番面白い」と豪語している通り、その圧倒的な恋愛のパワーはちょっと考えられないほど強烈なものがある。
おおよそこのあたり」というだけで、雰囲気のみ味わっていただければ幸いです。そして、北沢八幡神社(そういえば南口商店街の庚申堂にもここのお札が奉られていた!)を経て、開山400年の古刹・森巌寺を巡って駅のほうに戻る。
代沢三叉路あたりで、石川淳に思いを馳せるのもまたよし。
商店街を流して駅前まで戻ってきたら、ぜひとも立ち寄りたいのが「本多劇場」だ。
本多劇場
下北沢と言えば劇場である。中でも、本多劇場をはじめ、駅前劇場、シアター711などの八つの劇場を構えている本多劇場グループは異彩を放っている。
生みの親は本多一夫。元々は新東宝で俳優として活動を開始。1961年に新東宝が倒産すると、彼は下北沢でバーを始める。彼のバーには、新東宝時代の同期の俳優たちが押し寄せ、”女優が来る店”として評判になった。その地盤と縁を活かして、1981年にザ・スズナリを、翌年に本多劇場を建てたことが、演劇の町である下北沢へと繋がっていく。
石田衣良『下北サンデーズ』、又吉直樹『劇場』など、演劇に携わる物語の重要な舞台として下北沢が外せないのも、本多による功績と言っていいだろう。
実際にお芝居を楽しむのももちろんいいし、チラシをもらって眺めるだけでも楽しい。また、この階段の先には演劇グッズの専門店や、「革ジャンと季節の古着」というテーマのお店などがあり、覗いてみるのも面白そう。そして、そのまま裏側に抜けることができる。と、同時に、再開発で生まれたビルの脇道の新しいショッピングゾーンを流しながらでも、ビルの向こう側に到達することもできる。
まさに下北沢らしい一角なのであった。
そうそう、駅近辺には個性的な古書店がそろっているので、散歩ついでに文学そのものにも触れてみてはいかがだろうか。
渡部祐真氏テキスト参考文献
・Web東京荏原都市物語資料館(http://blog.livedoor.jp/rail777/)
・本多一夫、 徳永京子『「演劇の街」をつくった男』ぴあ、2018年
取材・文:武田篤典(スチーム)
写真:大久保 聡
文学作品解説:渡辺祐真
渡辺順三大地堂
渡辺順三は1894年生まれの歌人。没落士族の貧しい家に生まれ、幼い頃から神田の家具屋で働き、1913年から歌人としてのキャリアをスタート。自らの境涯を1924年に刊行した第一歌集『貧乏の歌』で歌い上げた。
時はプロレタリア文学の全盛であり、自らも労働者だった渡辺は雑誌「短歌戦線」、それに次ぐ「短歌評論」でその運動に身を連ねる。政府による弾圧が厳しくなる中、1938年に「短歌評論」は廃刊。同年、渡辺は下北沢で古本屋「大地堂」を開店する。店は評判となったが、戦争による一時的な疎開を余儀なくされる。
戦後、下北沢での営業を再開。詩人・仁木二郎に譲るまで、渡辺は店主として店を守り続けた。現在でも下北沢には名高い古書店が多いが、その走りとなった店と言えよう。