Tokyo

12/04 (水)

第3回:かつては江戸随一のショッピングゾーン。日本橋にあった魚河岸の痕跡をたどる

この1年や半年や、下手すると1週間で変貌してしまう街・東京。新しいビルが建ち、新店舗がオープンしつつも、昔の痕跡がのこっていたり、「実は江戸の時代のまま」なんてことが意外とあるのです。

そうした時代の証を、古地図を元に楽しむ「東京古地図散歩」。ツアーの先駆者である「歩き旅応援舎」のガイド・星野多慧さんに案内いただきつつ、今の東京を歩いて江戸を見つけ出していきます。今回は日本橋魚河岸の旅。

東京駅日本橋口。今の地図がまもなく古地図に⁉

スタートは東京駅「日本橋口」。在来線からは出られず、新幹線の改札しかないレアな出口。でもその分、東京の新たな玄関口としてのポテンシャルを秘めているようで、2027年度には、高さ390m のタワーと 7,000 ㎡ の広場を有する 「TOKYO TORCH」という新たな街区が誕生する予定。それによって、今の地図もちょっとだけ古地図になるのだろうな、というような感慨を胸に出発です。

今回は、日本橋川沿いに歩きながら江戸随一の魚河岸の賑わいの痕跡に思いを馳せる旅。
われわれのスタート地点は、地図でいうなら左下の空白部分にあたる。わかりやすいように少々ズームしてみよう。

地図の切れている左下付近がTOKYOTORCH。地図中央を左右に流れるのが日本橋川で地図左側で南北に交わるのが外堀だ。現在は日本橋川より南側は埋め立てられて、今は外堀通りになっている。今回は日本橋エリアにある一石橋からスタートして、日本橋川の痕跡と、川を埋め立てられて建てたコレド室町までを巡る旅に出よう。

魚河岸の賑わいを感じさせる「一石橋迷子しらせ石標」

まず、日本橋川と外堀の繋がる場所で「一石橋」に出合った。モダンな意匠の親柱は、大正11年に架けられた橋の名残。橋自体は江戸初期からあったそうで、町の有力な住人にちなんで名付けられたらしい。

「北詰には、幕府の御金改役・後藤庄三郎、南詰には幕府御用呉服商の後藤縫殿助が住んでいました。後藤と後藤を合わせて、つまりは“五斗(ごと)+五斗=一石”ということで、この名前になった記録されています」(星野さん、以下同)

ちなみに“一斗”は、今も鏡開きなどで見られる日本酒の一斗樽の一斗だ。分量は10升、つまり18リットル。また、橋の向こうにはいま日銀本店があるが、建っているのは後藤庄三郎の金座の跡地なのだそうだ。

さらに、立派な親柱の脇には「一石橋迷子しらせ石標」が、ひっそり佇む。

迷子の情報をやりとりする掲示板なのだそう。当時、魚河岸の人出による迷子の多さが問題視され、町内でこの柱をたてたという。柱の左側には迷子の親が、子どもの特徴を記した紙を貼り、右側には子どもを見かけた人がその場所を書いて貼るというシステム。

「まあ、そのくらい賑わっていたということでしょう。魚河岸はもちろん、一石橋はとても眺めのいい場所としても知られていて、この橋含めて、日本橋、江戸橋、常盤橋など八つの橋が望めることから『八ツ見の橋』とも呼ばれています」


  • 江戸名所図会にも「八見橋」として紹介されているほか、歌川広重も「名所江戸百景」で、第62景「八ツ見のはし」として描いている。

明治時代にかけられた西河岸橋にはレンガの橋脚が残る

このエリアは古地図に「西川岸町」と記されている。名前の由来はズバリ、「日本橋魚河岸の西」である。江戸時代には一石橋の次の橋は日本橋だったが、今は古い地名に由来する「西河岸橋」が架けられている。

この橋は、明治24年に架けられたが関東大震災で崩落し、大正14年に今の橋に架け替えられた。平成2年に修復・整備されて、パッと見は今の普通の橋だが、橋脚のレンガが歴史を感じさせる。

と、星野さんがホラホラこっちと指さす方を見やれば、堤防の“裏”に古い石垣。現在のコンクリートの堤防以前の護岸の名残が、今もしっかりと見られるのであった。


  • 画面右手の分厚いコンクリートが今の護岸。その裏に昔の護岸が見られる

日本橋といえば、たくさんの老舗でおなじみだ。かつての西河岸町にも、「名代金鍔」で有名な「榮太樓總本鋪」と、大名家から宮内庁へと一流の漆器を納めてきた「黒江屋」が軒を連ねている。ここで、星野さんが教えてくれた逸話2選。

「榮太樓さんは、きんつば同様に『梅ぼ志飴』がよく知られていますが、明治・大正時代ごろには、紅の下地替わりにつけると、唇が荒れずにいい艶が出ると、芸妓さんや舞妓さんに人気だったそうです」

「黒江屋さんには、日本橋が木造だった頃の擬宝珠(ぎぼし)があるんです(写真下/写真提供:黒江屋)。擬宝珠とは橋や寺社の階段の柱に取り付けられる飾りのこと。終戦後、黒江屋さんのお店が焼けてバラックで商いされていたときに、持ち込まれたそうですよ。今のお店の前のショーケースに飾られています」

戦後、骨董を商っていたわけでもないのに、日本橋の“一部”を吸い寄せてしまうのは、なんとも不思議。

江戸時代には五街道の起点。国指定重要文化財の「日本橋」

そしてほどなく目に入るのは、日本橋。

江戸初期に、徳川家康の町の整備の一環として架けられ、以来江戸期中に十数度焼失。時代劇のランドマークとしておなじみの、あの太鼓橋から、明治維新後には西洋式の平らな橋へと変わり、現在の石造りの橋が架けられたのは明治44年。現在は国指定重要文化財なのだそうな。そして、ここが日本と東京の「道路元標」。

江戸期に五街道の起点となったこの場所から、国道1号線やら4号線やらがはじまり、道路案内標識で「東京○○km」と書かれているのは、ここまでの距離なのだ!


  • これが道路元標を表す柱。かつては路上に置かれていたが、現在は上を走る首都高に設置されている

と、いうような基本情報を踏まえたうえで、なお、日本橋、語られどころだらけなのである。

まず、「日本橋」の題字を書いたのは、徳川慶喜だということ。元は縦書き。首都高の壁面に取り付けられているのは、レイアウトを横位置に変更してレリーフにしたものだと、星野さん。


  • 徳川慶喜の揮毫をもとにした「日本橋」の文字。元は縦書き

そして、荘厳な佇まいのブロンズの装飾が特徴的。東野圭吾の小説でもおなじみの麒麟に、獅子、デコラティブな柱が格好いい。東京都中央区の中心部に、こんな明治の意匠が残されているのが、そもそも驚きなのである。

「装飾顧問は、橋の設計とは別に明治建築界の巨匠のひとり、妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しました。西洋のデザインを基にしながら、東洋のモチーフを取り入れて、実はオリジナリティにあふれたデザインになっているんです」

たとえば、麒麟。もちろん想像上の生きものだけれど、“本物”にはない大きな特徴があるという。

「それは、翼です。日本道路の起点から飛翔するイメージといわれていますが、これが魚の背びれをモチーフにしてるんですね。もしかしたら魚河岸にも繋がっているのかもしれないですね。

そして、柱に描かれた植物は松と榎(えのき)。日本橋を起点とする東海道の松並木と、江戸時代に一里塚の目印として植えられた榎を盛り込んでデザインされているんですね」


  • なるほど、麒麟の翼が魚っぽい。柱の中央辺りの植物が松、その下の榎が配されている。上部には獅子の顔も

ズームしてみた。なるほど、柱中央部分の植物が松、その下が榎なのだろう。日本橋自体はすごく格好いいなと思っていたが、背びれも松も榎も知らなかった!

そしてよく見ると、柱の上の方に獅子が彫られている。ではここで問題です。日本橋に獅子は何頭いるでしょうか? 正解は──もし現場に行かれるならぜひ数えてみてください──34頭。なお、橋の上だけ見ていては、絶対全部見つかりません。

日本橋魚河岸の歴史を伝える記念碑と乙姫像

日本橋から日本橋川に沿って次の江戸橋あたりまで賑わっていたのが日本橋魚河岸。江戸時代から関東大震災が起きる1923年(大正12年)まで日本橋には魚河岸があったのだ。被災を受けて魚河岸は築地に移転し、現在は豊洲市場に更に移転したというわけ。日本橋北詰の東側には「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑と乙姫さまの像が鎮座する広場がある。


  • 日本橋の魚河岸跡の広場に置かれた乙姫さまの像。シアトル発祥のあのコーヒーショップのシンボルにちょっと似ている

かつては川岸に桟橋が設けられ、荷揚げした魚や全国の産物を川の畔で商っていたのだ。現在、魚河岸を思わせる痕跡はまったくないけれど、乙姫さまの脇に、大正時代の魚河岸の賑わいを伝える案内板があった。

「魚河岸は結局大正12年までここにあって、関東大震災以降に移転し、それが築地市場になります。いってみれば日本橋魚河岸は東京の卸売り市場のルーツみたいなものですね」

さて、もうひとつ、江戸の有名人の史跡に立ち寄ってみよう。オランダ船で日本に漂着し、造船や航海術、天文学などの知識で家康に重用された三浦按針(ウイリアムス・アダムス)の屋敷がこの辺りにあった。

「ちょうど川沿いの道の1本北側の通りです。住所でいうと、今の日本橋本町1丁目あたりに三浦按針が屋敷を拝領し、このあたりは按針町という町名になっていたんです。昭和7年に『日本橋室町1丁目』と『日本橋本町1丁目』に編入されて、町名はなくなったんですけど、屋敷のあった通りは『按針通り』と呼ばれてるんです。

正直、決して広くない通りの、小さな商店の軒先。というか、日本橋というエリアにおいて小さな商店が頑張っているところが素晴らしいのだが、知らないと絶対行けない小さな史跡、せっかくなので立ち寄って江戸に思いを馳せてもいいのでは。

300年の歴史ある街は今もやっぱり華やか。

一方で、「史跡」というよりも、江戸時代から現在まで続いている老舗も多くある。按針通りもある日本橋の北側は、かつての中山道につながる大通り。街道の整備と併せて、街道沿いには町人や商家を住まわせ、町を発展させる仕組みを作ったという。

江戸の活気をそのままに、日本橋は今も多くの人で賑わっているのであった。

たとえば嘉永2年の創業以来、海苔ひとすじに商いを続けてきた「山本海苔店」。日本各地の海苔の逸品を届けるだけでなく、お店に行けば、海苔を商う歴史や文化も体験できる。

そして元禄12年創業の「にんべん」。300年以上の歴史に裏打ちされた伝統の鰹節はもちろん、現在のニーズを捉えたフレッシュな商品やサービスを提供。新しい楽しみ方を発信し続けている。

開発が進み、最先端のビルが次々と建っている日本橋だが、江戸時代から続く老舗もこれまでと変わらず共存し、新しい日本橋のイメージができあがりつつある。古地図に頼らなくても、江戸の風情や粋を楽しめる町のイメージだ。が、古地図散歩で最後に案内されたのは「コレド室町」。でも、館内ではなく路地だった。

日本橋室町二丁目、中央通りから「COREDO室町1」と「YUITO ANNEX」の間を抜ける「浮世小路」。“うきよしょうじ”と読むらしい。


  • 現代の浮世小路は、路地の両側におしゃれなショップが建ち並ぶ

「江戸時代に、加賀をルーツとする町年寄・喜多村家の屋敷があったのがここなんです。加賀では小路を“しょうじ”と読むので、屋敷脇の路地をそのように呼んでいたそうです」

見ての通りの、いわば路地。でも、そのまんまの道ではないかもしれないけれど、ちゃんと古地図に記されているのである。それがこちら。

そして、この古地図にある「福徳神社」は今も存在している。

「これはもともと村の小さなお社だったみたいです。でも、家康が参ったとか、二代将軍・秀忠が『芽吹稲荷』という別名を与えたとかいう伝承があって、近代化につれ、縮小されて近所のあちこちに遷座されていたみたいなんですが、地域の再開発に伴って『コレド室町』の脇に新しく社殿が作られたんです」

完全にビルの谷間にポツンと突然……なのだけれど、制服姿の会社勤めっぽいおねえさんや、買い物途中のマダム、スーツ姿の男性などなど、みなさんが普通に真面目にお参りされている姿が見られた。

今回の魚河岸ツアー、そもそもの魚河岸の名残はまったくないし、メインとなった日本橋も明治終盤以降のモダンな日本の佇まいなのだけれど、“モノ”は残ってなくてもなんだか精神性のようなものは今も息づいていて、最新の東京でも江戸の暮らしの一端は体感できる。あと、普通に遊びに来ても、なんかとても楽しいのであった。

取材・文/武田篤典(スチーム)
写真/大久保 聡
取材協力/歩き旅応援舎

今回のまちめぐりOutline

黒江屋

住所 東京都中央区日本橋1-2-6 黒江屋国分ビル
アクセス 東京メトロ・都営地下鉄日本橋駅より1分、東京メトロ三越前駅より3分、JR・東京メトロ東京駅より8分
電話 03-3272-0948
外部リンク
公式ホームページ

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