Tokyo

12/21 (土)

第2回:坂道と路地をぬけ本郷から千駄木へ、近代文豪の旧居跡をめぐる

古典から詩歌、エンターテインメントまで、東京には文学にまつわる場所がたくさんあります。作品の舞台だったり、作品に盛り込まれた地名だったり、作家の住居跡だったり、文学上重要な運動が発生した場所だったり……。そうしたいわゆる“聖地”を書評家/ライター/文学系YouTuberの渡辺祐真(スケザネ)さんにセレクトいただき、ご紹介するコーナー。

スケザネさんの文学系スポット解説と、実際に街巡りをした現地レポートを合わせてお届けします。今回は、文人だらけの文京区本郷・東京大学あたりを巡ってきました。

渡辺祐真さん

文学散歩ナビゲーター

東京のゲーム会社でシナリオライターとして勤務する傍ら、2021年から文筆家、書評家、書評系YouTuberとして活動。毎日新聞文芸時評担当(2022年4月~)。著書に『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』(笠間書院)がある。

築90年、樋口一葉の住居跡は現在賃貸アパートになっていた

今回の文学散歩の起点となったのは、都営地下鉄大江戸線春日駅。この地名、そもそもは江戸初期に「春日局」がこのあたりに屋敷を構えたことに由来するらしい。三代将軍家光の乳母で大奥を統率していた徳川時代の有名人であり、数々の文学作品やドラマなどで描かれている。駅にはこんなマップもあるのだ。

だが、今回まずわれわれが目指したのは、樋口一葉名残の場所であった。

地上に出て西に歩を進めると、すぐに上り坂と階段が待ち受ける。えっちらおっちら5分も上ると、趣のある日本建築が見えてきた。家の石垣には、こうした説明板があった。

そして同じ家の石垣の少し先に、今度はこんな説明板が。

一瞬、お釜帽を被った長髪の石坂浩二や湖から逆さ向けに脚を突き出した死体などを思い浮かべてしまうが、もちろん「耕助」のほうではない。なお、金田一家の住む前、おおむねこの場所に、新撰組最強の剣士のひとりといわれた斎藤一が住んでいたらしい。

このエリア、なんだかすごいのである。だって、この家の脇の路地を入ったところに、そもそも目指してきた樋口一葉の旧居跡があるのだから!

世界で知られている日本近代文学の作家と言えば、まず名前があがるのは樋口一葉だ。秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』によれば、アメリカの大学生が選ぶアンソロジーでは、村上春樹や大江健三郎、川端康成を抑え、一葉の作品が収録された回数が最多だという。
その理由として、近代の作家の中で、例外的に一葉が西洋文学の影響をほとんど受けなかったことなどが挙げられている。
確かにその作品を読むと、遊郭や下町などの題材が、古典的で端正な言葉で綴られている。その多くの舞台となったは、一葉がわずか二十四年間の生涯のうち、約半分を過ごした本郷である。
樋口一葉菊坂旧居跡をはじめ、困窮に瀕した一葉が通った質店「旧伊勢屋質店」、樋口家ゆかりの寺「法眞寺」などが存在している。

現存している建物は一葉が住んでいたままの家ではないが、築約90年の歴史ある木造建築。内部は改装されて「ICHIYO」の名を冠した賃貸アパートになっている模様。そして、目の前には、一葉も使っていたとされる井戸が残っていた。

路地の奥まったところに家々が密集し、みなさん普通にお住まいの住宅地なので、見学の際はくれぐれもお静かに。

路地を抜けると、緩やかな坂に出る。そこに「伊勢屋質店」の建物が残されている。外壁は関東大震災以降塗り直したが、内部は昔のまんまだそう。

現在は、跡見学園が所有・保存し、「菊坂跡見塾」として一般公開も行ってるとか。見学は年末年始を除いた週末に行っているそうなので気になる人は跡見学園女子大学のサイトをチェック。

●旧伊勢屋質店(菊坂跡見塾)
東京都文京区本郷5-9-4
03-3941-7420
https://www.atomi.ac.jp/univ/about/campus/iseya/

坪内逍遙が見下ろした崖下に宮沢賢治は居を構えた

本郷通りから文京区西片一丁目までをつなぐ、このゆるやかな坂を「菊坂」といい、一葉以外にも様々な文人が暮らしていた。

時代こそ異なれど、樋口家や伊勢屋のご近所さんだったのが、宮沢賢治。

大正10(1921)年、25歳の宮沢賢治は父親と喧嘩の末、着の身着のままで家を出奔。紆余曲折を経て、本郷に下宿する。
東京にいたのは約8カ月という短い期間ながら、膨大な作品が執筆されたらしく、その中には「注文の多い料理店」「かくればやしの夜」「どんぐり山猫」など多くの代表作が含まれているとされる。
だが、最愛の存在だった妹のトシの病が悪化していることを聞き、まもなく帰郷することになった。

今はマンションが建っていて、この2階中央あたりに賢治は暮らしていたそう。説明板横の掲示板には、昔の建物の写真があり、賢治の時代を偲ぶことができる。菊坂の谷から本郷台地をつなぐ「炭団坂」はすぐ近く。

この急坂の上に、坪内逍遙の屋敷があった。

炭団坂上は、区画が広く眺望がよい。高台の並びには、文京区の歴史を知ることができる「文京ふるさと歴史館」がある。文京区の歴史とともに森鴎外や樋口一葉の書簡が見れる施設だ。

●文京ふるさと歴史館
東京都文京区本郷4-9-29
03-3818-7221
https://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/index.html

昭和22年、旧小石川区と旧本郷区が合併して、「文京区」が誕生した。「文教の府」の名前の通り、小石川植物園や湯島聖堂など、文化や学問にまつわる土地は多く、その歴史は江戸時代まで遡る。寛政9年(1797)、江戸幕府直営の昌平坂学問所が設立され、明治時代になると、その跡地には大学校や文部省、師範学校などが設置された。
それに続いた、同人社、済生学舎、称好塾、哲学館、日本女子大学校、女子美術学校などの私学についても枚挙にいとまがない。
本郷を中心とした文京区の歴史を遡ることは、日本の知を訪ねる旅になるだろう。

歩いたからこそ実感できる金田一と啄木の“距離”

春日通りを左折し、道沿いに1分も歩けば、4階建てのこぢんまりとしたビルに出くわす。1階はビルと同じ名前の床屋さん。ここは石川啄木が家族と共に居を構えた「喜之床旧跡」。

岩手県生まれの啄木は、文学で身を立てるために三回ほど上京をしており、その度に本郷界隈に居を構えている。
明治41年には、同郷の金田一京助を頼って、菊坂町の赤心館に下宿し、『鳥影』などの作品を執筆したが、家賃の滞納によって移住。後に、弓町にある喜之床という屋号の理髪店に家族と共に住むようになる。妻の家出や長男の死など苦労は絶えなかったが、『一握の砂』をはじめ、「はてしなき議論の後」や「飛行機」など、代表作が生まれた場所だ。『一握の砂』の序文には、金田一京助や亡き長男への言葉が捧げられている。


こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂しとげて死なむと思ふ

ああ、なるほど。「金田一京介を頼って」とだけ聞くと、文学史の一コマに過ぎない。だが何しろわれわれは、さっき金田一家を見てきたのだ。なんだかちょっと遠くなったんだな、ということが実感を伴ってわかる。元の建物が残ってなくても、こういうところに散歩の醍醐味があるのかもしれない。

春日通りは、本郷三丁目交差点で本郷通りに交わる。その4つ角には「ファミリーマート」と交番、彫刻家サトル・タカダの「シティブリッジ」と題されたアート、そして「かねやす」である。

「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という川柳がある。かねやすの横にあるプレートにも大きく描かれており、本郷によく行く人であれば見おぼえがあるだろう。
江戸とは、北は神田堀、南は新橋川が境とされており、罪人などはその川を境にして放逐されたというのだ。ちょうどそのあたりにあったのが小間物店「兼康」。「かねやす」の元祖であり、その支店は本郷にも存在していた。
兼康が江戸に開業したのは江戸幕府が始まった頃。世界一の人口を誇り、百万都市と呼ばれていた江戸では、家屋が密集していたことから火事が絶えなかった。見かねた幕府は、享保15年(1730年)に塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺ではなく、瓦で葺くこととした。その境目がちょうど「かねやす」だった。「かねやすまでは江戸のうち」は、そうした江戸という地域の二つの境目のことを意味するようだ。
なお、漱石『三四郎』には、「四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋があって、向こう側に日本小間物屋がある。(中略)野々宮君はさっそく店へはいった。表に待っていた三四郎が、気がついて見ると、店先のガラス張りの棚に櫛だの花簪だのが並べてある。」と、かねやすと思しきお店が登場する。

本郷を文士の街たらしめた東京大学

かねやすの次は東京大学赤門に向かおう。正式には、「旧加賀屋敷御守殿門」というらしい。加賀班上屋敷の、幕末に建てられた門で、江戸時代に各藩の藩邸があった東京で唯一現存するのがこの門だという。

本郷界隈には多くの文士たちが居を構えており、「近代文学発祥の地 本郷」というプレートが鎮座しているほどだ。その理由は諸説あるが、やはり東京大学の存在が大きいだろう。東大は近代化を推し進めるために、西洋文明の研究や受容を担い、そこから多くの人材を輩出した。そうした様子を称して、司馬遼太郎は「西洋文明の配電盤」と呼んでいる。

本郷界隈が「文の京(文京)」なんて呼ばれるほどに、文人達が集まってくるのもさもありなん、なのである。ちなみに現在、赤門は耐震診断を行うために閉門中。200m手前の「懐德門」を逃すと、赤門よりさらに300mほど先の正門まで進むほかない。

森鴎外ゆかりの邸宅まで歩く

東大の南側の「鉄門」を通り過ぎていくと、古い石垣とレンガでできた豪壮な塀に迎えられる。この向こうは「旧岩崎邸庭園」。1896年に岩崎彌太郎の長男・久彌が建てた本邸だ。鹿鳴館を建てたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる西洋木造建築が現存する美しい庭園だが、それはまたいずれ。われわれの文学散歩は、塀に沿った下り坂に注目する。

森鴎外の『雁』にも登場する無縁坂。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。」と、主要人物である東大生の岡田が散歩コースとして歩いている。
鴎外を愛読し、この坂を歩いたというのが、シンガーソングライターのさだまさし。同名の名曲が存在している。(「この坂を登るたび」と歌われているが、実際に日々母と歩いたのは、故郷である長崎の坂と言われている。)

無縁坂を下れば、『雁』にもあるように目の前には不忍池が見えてくる。岡田同様、上野の山を巡るのも一興だが、今回は池まで出ずに東大病院の外周を北上。最終的には、鴎外の邸宅跡に建つ記念館を目指すのだけれど、ちょっと寄り道。住宅街の同じ敷地に建つ小さな2軒の美術館にたどり着く。明治から戦後に活躍した挿絵画家の作品を中心に所蔵し、イラストや挿絵の企画展を意欲的に開催する「弥生美術館」、そして都内で竹久夢二の作品がつねに鑑賞できる唯一の「竹久夢二美術館」。

美術をこよなく愛した、弁護士・鹿野琢見によって創設された2つの美術館。
美人画や装丁、デザインなどで知られる竹久夢二は、本郷にゆかりが深く、芥川龍之介、菊池寛、坂口安吾、宇野千代らに愛された本郷にあった菊富士ホテルには、夢二もしばしば滞在したという。ただし、宿賃がなかったため、自分の絵を宿代として置いていったと言われている。

閑静な住宅街で趣味性の高い展示を常に行う美術館。本郷方面からアプローチすると結構距離があるので、湯島駅や東大前駅からここだけ目当てに来るのもアリかも。そして最終目的地は、森鴎外が自信の邸宅を構えた千駄木の高台にある「文京区立 森鷗外記念館」。

上京してドイツ語を学んだ進文学社、医学を学んだ東京大学、そして約30年間在住した観潮楼と呼ばれる家など、鷗外と本郷との関係は深い。
生涯のみならず、作品の中でも本郷は重要な土地であり、例えば『雁』では、「その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。」という書き出しから始まる。作品には重要な象徴として雁が登場するが、雁が普通に生息していたような一帯の風景に思いを馳せながら読んでほしい。

ひとくくりに本郷の文士(というかもはや根津、千駄木まで来ましたが)といっても、坪内逍遙や森鴎外みたいなリッチな人もいれば、貧困にあえぎつつ創作していた人もいて、長距離で一気に巡るとその“アップダウン”にやられるのでした。トレッキングほどの高低差と距離を体感するこの旅、行きたいところだけサクッと行くのでも十分楽しめます。ちなみに森鴎外記念館、ドイツ風のメニューを揃えたカフェがおいしそうでしたよ。

●文京区立森鴎外記念館
東京都文京区千駄木1-23-4
03-3824-5511
https://moriogai-kinenkan.jp/

取材・文:武田篤典(スチーム)
写真:大久保 聡
文学作品解説:渡辺祐真


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