Tokyo

11/06 (水)

第6回:神楽坂は歴史的見どころ満載。江戸を感じる路地から昭和の木造建築まで

この1年や半年や、下手すると1週間で変貌してしまう街・東京。新しいビルが建ち、新店舗がオープンしつつも、昔の痕跡が残っていたり、実は江戸の時代のままだったりなんてことが意外とあるのです。

そうした時代の証を、古地図を元に楽しむ「古地図で江戸散歩」。古地図歩きツアーの先駆者である「歩き旅応援舎」のガイド・星野多恵さんに案内いただきつつ、今の東京を歩いて江戸を見つけ出していきます。今回は神楽坂。

風情あるネーミングの「袖摺坂」から古地図歩きスタート

神楽坂を巡る供となる古地図がこちら。「江戸切絵図 市ヶ谷牛込繪圖」である。前回めぐった「市谷・牛込」の終了地点からのスタートとなる。もしかしたら距離的には、前回の1/3程度かもしれないが、さすがの神楽坂、見どころがギュッと凝縮されているのであった。

古地図をズームして、コースと見どころを落とし込んでみたのがこちら。

この古地図、現在の地図とは南北がほぼ逆。Googleマップなど表示しつつご覧いただく場合はご注意ください。水色のラインが旅の道程、緑の楕円が見どころ。ピンク色で示したのが「神楽坂」である。

今回のスタート地点である「袖摺坂」は、現代でいうと、都営大江戸線「牛込神楽坂駅」A2出口よりすぐのところにあって、古地図にもその名は残されている。

おおむねみなさんも容易に想像できるに違いないのだが、ネーミングの由来にはとても風情がある。

「江戸時代には片側が崖になっていて、もう片側は生け垣になっていたそうですが、古地図にこの坂は記されています。道幅がとにかく狭くて、人ふたりがすれ違うときには、着物の袖がすり合ってしまうほどだったようです」(星野さん、以下同)

今の石垣と黒塀に挟まれた階段は、どうやら昭和初期の設えらしい。石畳と銅製(?)で錆の浮いた手すりが、映画のロケーションやファッション写真の撮影にも使えそうなほど、いい雰囲気。……と、安易に印象を語ってしまったが、神楽坂には「映画のロケやファッション撮影にぴったり」な場所は、この後いっぱい出てくるのであった。

なおこのあたりは、江戸時代に「箪笥町」と呼ばれていたエリア。星野さんによると「箪笥というのは、今のタンスとは違って、鎧や弓矢などの武具を収納しておくための箱のことをそう呼んだんです。幕府の武器弾薬を扱う、具足奉行や弓矢鑓奉行の同心組が屋敷を拝領したのがこの町です」。

古地図には箪笥町のすぐそばに広大な「柳澤攝津守」の屋敷が見られるが、五代将軍綱吉の元で出世した柳沢吉保の子孫、柳沢光昭の屋敷跡である模様。古地図に知ってる名字が出てくると、ちょっとテンション上がるのである。

“左斜め上”から神楽坂に入れば、まず見るべきは昭和の渋い木造建築

利用する沿線によってきっと印象は違うと思うが、JRをおもに使う筆者にとっての「神楽坂」は、飯田橋からお堀を渡って上っていくのが“正門”な感じ。それゆえ、袖摺坂からの入っていくと、あたかも「東京ディズニーランド」に「クリッターカントリー」あたりから入場したような気分になる。あるいは、ステージの斜め後方からコンサートを見ているような。

なので、まだ神楽坂を通ることなく、路地から歩いて行くのである。そしてそんな脇道で風情ある木造建築たちに出合う。

こちらは「高橋建築事務所 一水寮」。

「英国留学経験を持ち、戦後、活躍した建築家・高橋博氏の下で腕を振るった大工さんたちの寮として昭和26年に建てられました。デザインはオーソドックスだし贅沢な素材が使われているわけでもないんですが、よく見ると窓の格子に手斧で模様を彫り込んだ『名栗仕上げ』が施されていたり、梁の細工が凝っていたりして、当時の大工さんの技能のショーケースのようになっています」

現在、貸事務所やギャラリーとして使われている「一水寮」と路地を隔てた隣には、高橋氏の住居兼アトリエだった『鈴木家住宅』が残されている。レンガを積み上げた玄関と瓦葺き屋根を組み合わせた和洋折衷の瀟洒なつくりで、後に高橋氏の娘婿で建築家である鈴木喜一氏が改修したもの。一水寮ともども国の登録有形文化財に指定されている。昭和20年代の建築なのに、江戸気分での散歩にしっくりくるのは不思議な気分だ。

このあたりの住所は今、「新宿区横寺町」なのだが、江戸時代から界隈は「通寺町(とおりてらまち)」と呼ばれていた。地図にもたくさんの寺が記されていて「通寺町」の表記も見られる。ちなみに「通り」とは牛込御門通、お城の牛込御門から堀を越えて繋がる今の神楽坂。牛込御門「通」の「寺町」の「横町」だったので、明治末期にこの「横寺町」となったのだとか。

武家屋敷跡の実業家宅跡の「白銀公園」に残る石垣

昭和の木造建築群を背に道をゆけば、神楽坂に到達。右に曲がって坂を下っていけば、飯田橋。左に少し登ると神楽坂駅。だが、われわれは坂を突っ切って住宅街に入っていく。メインの通りを外れると、途端に道は狭くなり、昔ながらの家々が立ち並ぶ風景になる。と、目の前に開けるのが「白銀公園」だ。

住宅街の中にある、整備が行き届いた広々とした気持ちのいい公園である。葉を落とした木々と石の山で遊ぶ子どもたちをぼんやり眺めていたら、「こっちです」と星野さんがいざなう。フェンスとコンクリートの塀をたどって角を曲がったところに、おお、石垣だ!

「古地図に『中山備後守』と記されていますが、もともと水戸藩中山家の屋敷があった場所です。明治時代には実業家で学者の渡部温が居を構え、その跡地が昭和に入って公園に整備されました」

「それぞれの石の上下のラインが一直線ではなく亀甲のようになっていますよね? この石垣は、明治期の技術だと思います。石の表面がでこぼこしているのは、石を叩いて割って加工した跡です。今、これをやろうと思ってもなかなか職人がいません。この石垣は非常に貴重なものです」(岡本さん)

なるほど、欠けたところをコンクリート(モルタル?)などで補修している箇所が見受けられる。今ではおいそれと用いることのできないような伝統工法でつくられているのだ。明治期の技術となると渡部邸の名残かもしれない……などと、公園の石垣ひとつでなにがしか検討できる視点を持てるのだ。そういえば、前回は道路と土地の「境界」から、昔の道幅を類推するスキルを獲得した。うむ、古地図は人をちょっと賢く、人生をちょっと楽しくしてくれるのである。

「白銀公園」の角より東へ下る急傾斜の「瓢箪坂」を下りて、右に入ると「駒坂」に出くわす。これもいわば“袖摺坂”といっていいサイズ感。道幅2mほどのタイル貼りの階段にクラシックな手すり。一応これでも新宿区の「区道」なのである。

このあたりは、江戸時代にあった「盛高院」というお寺の跡地なのだそう。

神楽坂はお寺だらけだった!?

この古地図散歩、今の街のいわゆる“メイン”となるエリアをわりと外しがちだ。「銀座」の回などは、ショッピングにもグルメにも歌舞伎にも目もくれず、ひたすら裏道の「川の跡」を追ったほど(面白いですよ!)。今回も裏道をたどってたどって、ようやくメインストリートに到達したのだ! ハロー神楽坂! そしてしかもいきなり、ランドマーク的存在の「毘沙門天 善國寺」。古地図にもしっかりと載っている。

「善國寺は安土桃山時代に創建され、何度か火事に遭ってから寛政四年に神楽坂に移転したそうです。江戸末期の文化・文政の時代には毘沙門さまを参詣するのが大いに流行し、それまでほとんど武家屋敷とお寺だけしかなかったこの町に、商店が軒を連ねるようになりました」

こちらは神楽坂を下から見上げた図だが、北側には旧来の武家屋敷とお寺が建ち並び、善國寺のある南側にはよしず張りの茶屋が数多く進出して、花街としての賑わいも見せるようになったらしい。

かつて、善國寺から坂を挟んだはす向かいに「行元寺」というお寺があったそう。古地図では「行願寺」と記されているこのお寺、明治40年に西五反田に移転し、跡地の一部は現在「寺内(じない)公園」となっている。

公園の案内板によれば、花街としての神楽坂の発祥の地がこの一帯なのだとか。

行元寺が江戸中期に境内の一部を武家の住まいとして貸し出し、その中にあった狭い路地が江戸末期に遊行の地となり、神楽坂の花柳界はここから生まれたと説明されている。なるほど、寺内公園は一見行き止まりのようなのだが、裏手には非常に細くて古い階段がある。

そして、この先に歴史ある料亭や日本料理店などが立ち並ぶ路地につながっている。もちろん、神楽坂通りのいろいろな横丁からもアプローチできるけれど、寺内公園の奥の階段は、別世界への入口みたいで楽しい。

「寺内公園の裏手の路地は『兵庫横丁』といい、戦国時代に武器庫があったことに由来する町名です。多くの文豪や映画関係者が打ち合わせや執筆に利用していた旅館『和可菜』や料亭が軒を連ねています。現在、神楽坂の芸者さんと料亭からなる『東京神楽坂組合』に加盟されている料亭は3軒。うち『幸本』さんがこのエリアにあります。『千月』さんが『かくれんぼ横丁』、本多横丁エリアに『牧』さんがあります」

『和可菜』は現在閉業中で、建築家・隈研吾さんの新プロジェクトでオーベルジュとしてリニューアルオープン準備中だとか。

他にも、本多対馬守の屋敷跡に昭和初期の木造店舗や古い料亭の建築を活用した風情あるお店の集った本多横丁などもあり。

神楽坂の石畳にも注目。縁起の良い末広がりの「うろこ張り」

さて、この神楽坂の石畳、「ピンコロ石」というキューブ状の石を使い、アーチ状に配置していく「うろこ張り」というスタイルで張られているらしい。末広がりという縁起の良さを謳うとか、花街へお客をいざなうよう一方向に向けて波がデザインされているとか諸説あり……のなか「せっかくなので、私今回、絶対見つけたいものがあるんです!」と星野さん。

場所は「かくれんぼ横丁」の路地が少し開けた広くなった新しいビルの前。なんでも、石畳の石の中にハートが1個入っているらしい。とりあえず古地図はしまって全員で捜索。

平日午後2時台に黙して石畳を凝視する大人たち。示し合わせたようにみんな上着はネイビー(示し合わせてはいない)。落としたコンタクトレンズを探す丹念さで、コンタクトレンズよりはかなり大胆に歩き回りながら凝視。

………………あった! 場所は新宿区神楽坂3-1のあたり。『Cookie&Chocolatハートの小径 神楽坂』の前の路地、ならぬ小径。ぜひ探してみてください。

期せずして“隠れなんちゃら”みたいになった(そしてハートを見つけた一同は、びっくりするほどテンションが上がっていた)けれど、古地図散歩の最後は、やはり歴史ある場所を目指すのである。目的地は古地図によれば「髙木市太郎」という武家の屋敷跡。神楽坂に出て少し登って通りを渡る。今の「見番横丁」、まさにその由来となった場所。

今も通称「見番」として存在する「東京神楽坂組合」。芸者さんと料亭からなる組織で、加盟している料亭は先の星野さんの説明のように3軒、そして20名弱の芸者さんと1名の半玉さん(見習い)が所属しているそう(Instagramアカウント「kagurazaka_kumiai」より)。

こちらは「稽古場」。

そしてお隣に組合事務所。手前の通りが「見番横丁」。

「芸者さん達が善國寺の節分に参加したり、毎日の研鑽の成果を年に1度みなさんの前で披露する『神楽坂をどり』を主催したりするのも、この組合のお仕事です。

神楽坂は、江戸末期から善國寺への参詣者が増えて花街としても栄えましたが、その頃は庶民的な町だったんです。今の神楽坂の大人っぽさや高級感が生成されたのは関東大震災の後だといわれています。銀座から多くのお店が移ってきたことで、グッと家賃相場が上がり、庶民たちは四谷や新宿で飲むようになったようです。そうした背景もあって、今も花柳界の伝統がきちんと受け継がれています」

一見でも、座敷を貸し切らなくても、芸者さんとの遊びを体験できるプランを販売している料亭もあり、本物の江戸の粋も体験できたりするのが神楽坂。一方で、古い建物を活かしつつカジュアルに和のムードを味わえるお店もそろう。古地図片手に散策もよし、古地図しまってハートの石畳を探索もよし。ブラつくだけでタイムスリップ可能な神楽坂の旅なのであった。

取材・文/武田篤典(スチーム)
写真/大久保 聡
取材協力/歩き旅応援舎

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