Tokyo

10/18 (金)

歴史は670年以上。壮大な歴史を持つ「甘い日本のお饅頭」の生みの親『塩瀬総本家』

貞和5(1349)年創業──。日本風の甘い饅頭を発明し、670年以上の歴史のなかでイノベーションを起こしつづけ、今なお日本の和菓子文化を支える「塩瀬総本家」。その歴史や家訓を三十五代目当主、川島一世さんに伺います。初代、林浄因による甘いお饅頭の発明、足利家、徳川家との関わりも深い塩瀬家の発展と饅頭の変遷など、大河以上に壮大なその歴史は、”饅頭”に抱くイメージを超えた数々の驚きを私たちにもたらしてくれます。

林:塩瀬総本家三十五代目の川島一世さんにお越しいただきました。最初に自己紹介をお願いできますでしょうか?

川島さん:昭和25年、東京で生まれ、麻布中学・高校を卒業した後、慶應義塾大学法学部法律学科に入りました。英語が好きだったもので、当初は外交官になろうと考えていたんです。そして、ご縁があって日本航空へ入社します。初年度は1日150本くらい電話を取る生活で、そこから高松営業所勤務となり、2年後の1977年にはJALPAKで添乗員業務に就くことになりました。

川島さん:約2年半の出向期間で、南米とアフリカの南の方以外のJALPAKが入っているところはだいたい行きましたね。エジプトのピラミッドの中にも入りました。

林:すごい。

川島さん:1979年からは東京支店鉄鋼ビルカウンター・渋谷道玄坂カウンターで、業務に従事し、ようやくOJT期間が終わります。1980年からは、欧州線の予約管理を担当しました。予約情報はコンピューターでもちろん管理してるんですが、その作業はほとんど人力なんですよ。

林:ええ!

川島さん:僕は責任者をしていましたが、1年分の座席の予約状況はだいたい頭に入っていました。

林:神業ですね。

 

川島さん:世界企業ですから、地球の裏側とのやり取りや出張もあったりして、1985年に客室添乗員をしていた現在の妻と結婚します。それで、1984年にミラノ営業所勤務となりました。約5年勤め40歳を目前に次のキャリアを考えている時期、両親に電話するとどういうわけだか「中国、北京の食品工場を買った」という。父も母も英語もしゃべれないのにできるの?と。それで、「俺が会社やめて手伝うから」と塩瀬総本家へ入社しました。

林:なるほど。

川島さん:僕が入社した1989年といえば天安門事件です。結果として、西側との契約は全部破棄になりました。それで、中国行きの話はなくなり、会社に務めて今年で33年になります。趣味は、茶道裏千家、准教授、ゴルフ、旅行など。

林:お茶をなさるとは伺っていました。

川島さん:祖先に千利休さんの孫娘と結婚した人がいたので、その縁で「お茶をやらなきゃいけない」と言われていたんです。昔はうちの本社で茶道教室をやっていたので、そこでお茶の勉強をはじめてもう30年近くになります。

林:塩瀬総本家さんの本店の奥には、素晴らしい茶室がありますので、是非みなさん伺ってみてはいかがでしょうか。

饅頭はどのようにして生まれたのか

川島さん:ところで林さん、饅頭といえばどういったイメージですか?

林:今のお饅頭には、割と甘いイメージがありますね。

川島さん:饅頭の定義って難しいんですよ。たとえば中国の饅頭と日本の饅頭でも定義が若干違うんです。饅頭という名称は三国志に由来します。諸葛孔明が蜀へ攻め込んだ帰りに、金沙江(きんさこう)が氾濫して渡れない。村の古老を頼ったところ「家来の首を49個切って流しなさい」と言われた孔明は、代わりに羊の肉を小麦の皮で包んだ饅頭をつくって川に49個流します。その結果、無事に氾濫は静まったとか。そこで、西暦200年頃に生まれたのが饅頭なんです。

林:横山光輝の『三国志』にも出てくるエピソードですね。

川島さん:さて、中国で生まれた饅頭がいかにして日本に伝わったか。諸説あるんですが、鎌倉時代に聖一国師(しょういつこくし)という方が伝えたといわれています。三国志の時代から日本に伝わるまでの間に饅頭が変節したんですよ。肉が入った饅頭は、今の中国では包子(パオズ)といいます。

林:あ、確かにそうですね。

川島さん:聖一国師の時代には饅頭とは、中に何も入っていない小麦のパンでした。1988年ごろに日本テレビの『謎学の旅』という番組で、聖一国師の開いた東福寺の記録を調べたところ、彼は主に製粉技術を伝えたということがわかった。そして、林浄因(りんじょういん)が今でいうあんこのはいった饅頭をはじめたと結論付けられたんです。

林:私と同じ「林」の一字が入っている林浄因さんは、中国の方ですね?

川島さん:それでは、家系図をご覧ください。

川島さん:これはもっと長い家系図を要約したものです。右端の林和靖(りんなせい)は、西暦1000年くらいの人物で、林浄因が来日するのは1349年なので300年近く間がありますね。中国で、うちも林和靖の子孫だという人が、饅頭祭りの映像を見てホテルまで訪ねてきたこともありました。

林:すごいですね。

川島さん:林和靖というのは、中国宋代の有名な詩人です。西湖の狐山に住み、詩を詠じたとか。江戸城に林和靖の間があるほど有名で、武士道にその思想が非常にマッチしたんです。なので、江戸時代の弊社のキャッチコピーは「当社の初代林浄因は林和靖の末裔にて……」とはじまっていたそうです。

林:林和靖は「梅を愛し鶴を養う」といった例えをされるほどの聖人なんですよね。

まるで大河ドラマのような歴史を持つ塩瀬総本家

川島さん:そして、塩瀬初代の林浄因です。この方が中国で44年もの間修業した龍山徳見(りゅうざんとっけん)に師事していまして、この師弟関係は司馬遼太郎の『饅頭伝来記』という小説でも語られています。

川島さん:龍山徳見と林浄因の来日は園太歴(えんたいれき)という当時の太政大臣をつとめた洞院 公賢(とういんきんたか)の日記に記されています。1年近くかかった入管ののち、一行は茶祖「栄西禅師(えいざいぜんじ)」によって開かれた京都の建仁寺にたどり着きました。そこでお茶の合いの手に林浄因があんこを使った、いわゆる日本のお饅頭を出し、大評判になったというわけです。

川島さん:そうして評判を得た林浄因は、後村上天皇より官女を賜り妻とし奈良に住みました。今では奈良駅近くの漢国神社内に設けられた、林神社にて祀られています。そもそも林浄因が奈良に移住したのは、奈良の大仏やお寺の建築に来た中国からの渡来人がたくさんいたからでしょうね。

川島さん:それで作ったのが奈良饅頭。当時は白い小麦粉がなかったので茶色く、「あまずらせん」という蔓の植物から取った汁を煮詰めた甘味が砂糖の代わりに使われていました。これを当時の貴族や大名が愛しまして、『酒飯論絵詞』という室町時代の食文化を伝える資料にも塩瀬家の人物が饅頭を作る様が描かれています。

林:なるほど。

川島さん:そして、林浄因が結婚の際に配ったの引き出物が、日本初の紅白饅頭です。おめでたい事に紅白饅頭を配る風習の始まりと言われています。浄因は子孫繁栄を祈って、紅白饅頭の一組を大きな石の下に饅頭塚として埋めました。その後塩瀬家は奈良、京都、江戸と3派に分かれ、私どもは江戸になります。

川島さん:奈良の林宗二は饅頭屋の傍ら学問を修め、『饅頭屋本節用集』という書籍を出版しました。当時の活字出版は珍しく、彼は「日本のグーテンベルグ」とも称されます。僕、学生時代に日本史で『饅頭屋本節用集』を習ったんですよ。

林:うわー、すごい。

川島さん:それほどの有名な本なんです。また、林宗二が考案した本饅頭は1575年「長篠の戦い」で、徳川家康に献上された由緒ある商品です。別名兜饅頭ともいい、家康は自分だけが食べられるお菓子として楽しんでいたとか。これは、今でも塩瀬でお出ししています。ほかにも家康との縁は深く、夏の陣で真田幸村に追い詰められた際かくまったお礼に鎧兜一式を頂戴したことから、その管理を本業とした子孫もおります。

塩瀬総本家の歴史はまるで大河ドラマのような壮大なものでした。脈々と受け継がれてきた饅頭づくりの炎を絶やさない姿勢は、まさに日本の宝物とも言えるかもしれません。

後編へ続く

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