Tokyo

11/06 (水)

中学生で覚悟を決めた。日本最古のバー「神谷バー」を取り仕切る五代目の決意

明治13年(1880年)から、浅草駅前で街の変化や賑わいを見つめ続けてきた日本最古のバー、「神谷バー」。1F『神谷バー』で看板メニューのデンキブランやハチブドー酒が楽しめるだけでなく、2F『レストランカミヤ』、3F『割烹神谷(※)』では、趣向の異なる空間が提供されています。そんな神谷バーの五代目、神谷直彌さんに、神谷バーの成り立ちや、時代ごとに生み出されたイノベーションについて伺いました。

※インタビュー時点(2022年3月)は休業中。

神谷バーの五代目、神谷直彌さんに本日はお時間をいただいています。早速神谷バーについてご紹介いただけますか?

浅草の小沢橋のたもとで、1Fビアホール、2F洋食レストラン、3F和食割烹の3フロアで店舗を営業しております。

3店舗それぞれ、どのようなお店なのでしょうか。

1F『神谷バー』では、生ビールやデンキブラン、お料理を楽しんでいただけます。2F『レストランカミヤ』ではお酒のほかに喫茶もご用意しておりますので、お子様連れなどご家族にもよくご利用いただいています。3F『割烹神谷』は和食割烹なのですが、現在はコロナの影響で休業しています。

神谷さん自身のご経歴は?

昭和39年、東京都目黒区の生まれです。浅草の人って生まれも育ちも浅草という方が多いんですが、私は浅草に1度も住んだことがないんですよ。

ええ!

世間ではエセ下町っ子っていわれているんです(笑)。

浅草界隈では(笑)。

「とか何とか言っちゃってさ」なんて言ってますが、全然、江戸っ子じゃなくて。社会人になってからはアサヒビールさんに4年半お世話になりました。ちょうどスーパードライと同期なんですよ。

すごいですね。

スーパードライが3月17日発売で、僕は4月1日入社でした。

先輩ですね。

2週間先輩ですね。そのご縁から、当然うちのビールもアサヒビールが中心です。

吾妻橋を挟んで神谷バーとアサヒビールが向かい合っているのが象徴的ですね。当時はまだアサヒビールの建物はなかったんですよね?

あそこは、元々ビール工場だったんです。工場がなくなって土地そのものを処分した後に、買いなおして、今の本社ビルが建てられたんです。だからお客さんのなかには「神谷バーのビールはあそこ(アサヒビール本社)から直接来てる」という人もいます(笑)。

信じるか信じないかはあなた次第ですね(笑)。神谷さんはなぜ、アサヒビールに入社しようと思われたんでしょうか?

デンキブランはもちろんのこと、うちではビールを扱う比率も高いんです。入社後、営業として、問屋さん、酒屋さん、飲食店さんなどいろいろな現場に携わることで勉強させていただける、ということもあって、ビール会社にお世話になることにしました。

中学生のころ、商売を継ぐ宣言をした

神谷さんは目黒区生まれで、神谷バーが身近にはなかったのですよね。お店を継ごうと考えるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

今でも覚えているんですが、中学生のときにホームルームの3分間スピーチで、なぜか「僕は将来商売を継ぐんです」と宣言したんですよ。50人のクラスはシーンとしましたね。「こいつ、何言っちゃってんの」と。

いい話じゃないですか。

直接の動機付けは自分でも定かではないんですが、歴史あるお店の価値みたいなものも多少なりとも理解しはじめていたので、なんとなく将来を考える中で、そんな思いが浮かんだんでしょうかね。

学生のときにはもう、ある程度継ぐことを覚悟されていたんですね。

その覚悟はありましたね。生きていく中で自分が何を残せるか、と考えたときに、神谷バーのような歴史あるところに携わってそれを継いでいくことが、自分の運命というか、宿命というか……。かっこいいですね、言ってること。照れるな、自分で(笑)。

めっちゃかっこいいですね(笑) 。浅草に代々住まれている方の良さがあるように、浅草に住んでいないからこそ、浅草の外側を知っているという良さもありますよね。

そういう風に言ってくださる方も多いんですが、浅草で生まれ育っていないというコンプレックスはやっぱりあるんですよ。浅草のいろいろな方々と会うようになって驚いたのが、いきなりファーストネームで呼び合うんです。僕も最初から直ちゃんって呼ばれて。26歳で店に入って、30歳ごろからいろいろとお付き合いさせてもらうようになったんですが、自分は“地の人”じゃないという思いはちょっとありますね。

浅草で「~ちゃん」と呼び合って、小さいころから遊んでいるみたいな関係にはちょっとうらやましさもあるんですね。

浅草はいい意味で“おせっかいな街”ですね。たとえば僕が誰にも言わずゴルフに行ったとしても、帰ってきたときにはみんなスコアまで知っている。そういう街ですね。

もう秘密は何もないですね。むしろそれが楽なんですかね。

若い人などは自分の領域に入られるのがいやな方もいるかもしれませんが、私はそういうのが全然苦にならないタイプなんです。

浅草の街の人情味、人のつながりを大事にする雰囲気が神谷バーさんにもあるのかな、と今のお話で感じることができました。そんな神谷バーに家訓はありますか?

特にないんですよね。大正10年から100年以上浅草で鉄筋コンクリートの店舗を構えており、震災と戦災などで記録の多くが消失してしまったんです。

では、大事にしている思いや、大切にしている言葉はありますか?

うちは都心と違って、下町の気の置けない場所ですから、一人でも友達や家族とでも、気楽に気取らずに飲食していただける場所でありたいとはずっと思っています。

実は老舗のみなさん「家訓はないよ」とおっしゃる方が多いです。それよりも目の前のサービスをちゃんと引き継いでいくことの方が大事という思いをみなさん持たれていて、神谷バーさんもその考えを同じくされているのですね。

中学生のころ、商売を継ぐ覚悟を固め、それを現実のものとした神谷バーの五代目、神谷直彌さん。「浅草で育っていない」というコンプレックスは、「外側からの目線を持つ」という強みに変化し、商売に活かせているようです。

後編へ続く

※この対談を動画で見たい方はコチラ

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