Tokyo

11/06 (水)

デンキブランでもおなじみの日本最古のバー「神谷バー」、時代ごとのイノベーションとは

明治13年(1880年)から、浅草駅前で街の変化や賑わいを見つめ続けてきた日本初のバー、「神谷バー」。1F『神谷バー』で看板メニューのデンキブランやハチブドー酒が楽しめるだけでなく、2F『レストランカミヤ』、3F『割烹神谷(※)』では、趣向の異なる空間が提供されています。そんな神谷バー5代目、神谷直彌さんに、神谷バーの成り立ちや、時代ごとに生み出されたイノベーションについて伺いました。

※インタビュー時点(2022年3月)は休業中。

前編より続き〜

デンキブランなど、初代から当代に至るまでの神谷バーのイノベーションについて、お伺いできますか?

そもそも、三代目の祖父の代までは『神谷酒造』というメーカーがあって、初代も酒造業を志していたんです。なので祖父までは、言ってみれば大メーカーの社長さんだったんですよ。昭和35年に合同酒精と一緒になって、飲食店としての『神谷バー』がメイン事業となりました。つまり本来のメイン事業は酒造業だったんですね。

まず酒造メーカー時代に、イノベーションがあったわけですよね。

当時は明治のはじめ頃ですから、洋酒はなかなか手に入らなかったし、ワインを飲む習慣もありませんでした。そんななかで、安くて日本人の口に合う洋酒を作りたい、という思いで生み出されたのが、ハチブドー酒やデンキブランなんです。

まず、初代ではハチブドー酒がつくられたんですね。二代目ではいかがでしょうか?

私にとってひいおじいさんにあたる二代目は養子なんですが、茨城県の牛久にワイン醸造所『牛久シャトー』をつくったのは彼の仕事だときいています。

初代が酒造メーカーを立ち上げられたということですが、当時、そのハードルは高かったでしょうね。どんな背景がそこにはあったのでしょうか。

文献によると、若い時分に身体に不調があって、雇い主に葡萄酒を飲ましてもらって元気が出たという話があるそうです。

本当にすごいですね。ワインは、健康にも良いという話はよく耳にしますが。

祖父のときには戦争がありましたし、先ほど申し上げた企業合併などもありましたから、一番大変な時期だったと思います。実は、神谷バーは三代目が個人商店として立ち上げたんです。もし、神谷バーが神谷酒造の一部だったら現在の状況はなかったかもしれません。

なるほど。合同酒精さんと合体しているかもしれませんからね。

実際にお店を切り盛りしていたのは、私にとってのひいおばあさんにあたる方だったそうです。彼女は昭和39年の11月23日に亡くなるんですが、僕はその5日後に生まれたんです。だから、勝手に僕は曾祖母の生まれ変わりだと思っています。

運命的ですね。神谷さんがひいおばあさんのスピリットを引き継いで、浅草の人々が集まる神谷バーを営まれているんですね。戦争もあった三代目の時期に生み出されたイノベーションは何かあるのでしょうか?

戦後に再開するときに、どうも2Fをつくったそうなんです。今でも売り上げの大きな助けになっていますね。ただ、そのとき急いでつくったためかすべて木造の床だったので、耐震など含め大工事することになりました。

みなさん、自分の代で神谷バーを育てていく中で売り上げが拡大してきたんですね。そして、四代目はお父様の代ですね。

父のときに一番大変な仕事だったんだろうなと思うのは、一部に残っていた合同酒精さんの土地の権利などを集約して会社を今の形にしたことです。

契約の整理は、めちゃくちゃ大変ですよね。すごい。デンキブランという象徴的な武器を持ちながらも、酒造業との距離を適切に取らなければならないとご尽力されたんでしょう。そして、五代目が神谷さんです。

お客様に提供する「空間」をケアしていきたい

私は5年ほど前に耐震工事をしたんです。うちは国道6号線の江戸通りに面していまして、そこが緊急時輸送道路なんです。つまり、倒壊してはならない。そのための工事の業者を探すのも苦労しましたし、なんとか元の建物を残しながらやっていく方法はないかということで柱の太さや壁の厚さを増強することに工夫を行いました。

大正から少しずつリノベーションしながら受け継いできた建物を、耐震という安全面で改良することに取り組まれたんですね。

結果として耐震基準はクリアできたんですが、それでも絶対に壊れないわけじゃないんです。一瞬にして壊れないからその間に逃げられるという基準なんですね。でも、私にできる精一杯、次の世代につなげることはできたかなと思っています。

昔ながらの構造を保ちながら、耐震構造をつくるのはとても大変なんですよね。耐震構造をつくるということは、デザインに影響しますから。

そもそも大正10年の建物ですから、当時の図面がないんです。だから、構造計算なんかもすごく苦労したみたいです。

工務店さんからすると、「剥がさないとわかんないよ」みたいな……。

そうですね。剥がしてみると、ずいぶん煤けていましたよ。

こんなに大変な思いをしてご先祖様は店を続けてきてくれたんだな、という思いがしますよね。これから神谷バーで新たにやっていきたい展望はございますか?

今耐震工事のお話をしましたが、昭和55年に隣に建てた部分がありまして、調理場が入っているんです。そこも大分古くなっているので、私の目が黒いうちにこの先何十年も使えるような調理場を用意していきたいなと思っています。

今は飲食店としてお酒やデンキブランなどの看板メニューも充実しているので、逆に建物をよりしっかりしていこうというお考えでしょうか?

我々の営む飲食業は、飲食を楽しむ空間も全部含めてご提供する仕事ですから、場所をきっちりケアしていかないと商売として続けていくのは難しいのかな、と考えています。

飲食業は、総合芸術のようなものですからね。お客様の五感すべてをケアしてきたからこそ、五代続いてきたのでしょう。最後に、読者のみなさんにメッセージをお願いいたします。

とりとめのない話ばかりになってしまいましたが、うちだけじゃなく本当に楽しいお店や楽しい場所がたくさんありますので、ぜひ浅草にお越しください。

五代つづいてきた神谷バーには、それぞれの代にイノベーションが起こっていました。現在の五代目は、そんな神谷バーを守っていく立場。来訪者が飲食を楽しめるように、との思いで、神谷バーをケアしながらも存続させていくことでしょう。

※この対談を動画で見たい方はコチラ

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