Tokyo

11/06 (水)

世代を超えて支持される、老舗の足袋。思いを込めて足袋作りを続ける「大野屋總本店」

安永年間(1772年~1780年)に創業し、嘉永2年(1849年)、現在の新富町に移転した「大野屋總本店」は代々足袋を作ってきた老舗です。現在もひとりずつ足型を採って足袋を制作しており、その他にもハンカチや湯上りなどの和装雑貨を生み出しています。今回は文化事業家の齋藤健一さんと一緒に、大野屋總本店の七代目、福島茂雄さんにお話を伺いました。

林:まず自己紹介とお店の紹介をお願いします。

福島さん:創業は1770年頃、安永年間です。初代の福島美代吉が信州の田舎から出てきて、最初は三田で装束の仕立て屋をやったと聞いております。嘉永2年(1849年)に今の新富町に移り、それからは足袋と和装肌着、小物などを製造販売しています。

林:自己紹介もお願いします。

福島さん:私は七代目の福島茂雄と申します。大学を卒業してからアメリカの大学院に留学して、卒業後は総合商社に3年ほど勤務したあと、家業である大野屋總本店に入りました。父は今も健在ですが、私が代表取締役として、職人と一緒に足袋の製造から、何でもやっています。

林:ほかの老舗の皆さんは、小さい頃からなんとなく「跡を継ぐのかな」と考えられていたと聞きますが、福島さんはどうでしたか?

福島さん:そうですね、会社の隣にずっと住んでいたので「将来はやるのかも」という気持ちはありました。ですが、学生時代は海外で仕事をしたいという志向がとても強かったので、商社に就職しました。
でも、父親が病気になって出張先で倒れたりしたこともあって。「自分に本当に向いてる仕事は何だろう、これから先ずっとやっていくには、どういう仕事が合ってるのかな」と考えたときに、漠然と「商売みたいなのが合ってるんじゃないかな」と思ったんですね。商社もたいへんやりがいがありましたが、「本当にこれ、自分が一生やる仕事なのかな」という疑問みたいなものが……。それで、会社を継いだというか、入ったんです。

林:小さいときから足袋に触れたり履いたりする機会は多かったですか?

福島さん:いやいや、全然。お祭りとかで履くぐらいで。ほとんど洋服の生活で、足袋って着物のときしか履かないもので。ただ、忙しいときに袋詰めを手伝ったり、配達について行ったりはしていたので、身近ではありました。私の息子たちは「ただいま」って店の方から帰ってきて、職人さんたちの働く2階のミシン場や仕上げ場に来て、挨拶してから家に帰ったりするんですよ。多少は日常に馴染んでいるのかもしれません。

林:そんなにお店に寄り付かなかった」とか「直接手伝わなかった」みたいな話もよく聞きますが、生活の中にあるだけで感覚がいつの間にか伝わるんでしょうね。「門前の小僧」じゃないですが。家訓はあったりするんでしょうか?

福島さん:特に家訓っていうのはないんですよ。過去にも「先代がこう書いた」とかいうのは全然残っていません。

林:齋藤さん、恒例のやつですよ(笑)。老舗さんほど家訓がないっていう。

齋藤さん:感じ取れるものを引き継いでいくんでしょうね。家訓以外でよく使う言葉はありますか?

福島さん:シンプルですが、「一つひとつを丁寧に」というのを常に心がけています。仕事に対してもそうですが、手を抜かずにきっちりやろうと。足袋も自分の「作品」だと思って作っています。

200年前のミシンを使い、足袋を生産している

林:では初代からご当代・七代目までに起こしてきたイノベーションを教えてください。

福島さん:戦争があったり、世代ごとにいろいろな壁にぶち当たってきたと思いますが、一番大きな変化は、機械化ですね。大正時代に、舶来のミシンがドイツとかアメリカとかから来ました。たとえばドイツの靴を縫うミシンを改良して、足袋を作れるようにして。大正時代は足袋の生産量が全国的にすごく増えたらしいです。いまだにそういうミシンを使って足袋を作っています。それこそ200年ぐらい前のミシンとか。

林:動くんですか!?

福島さん:動きます動きます! それをメンテナンスしながら。結構しっかりしてるんですよ。糸目もしっかりしてますし。

林:おお〜! それはすごい。二代目・代目の頃ですか?

福島さん:代目の私の祖父の時代ですね。1920年代ぐらいでしょうか。売り上げもよかったみたいで、イギリス製のバイクを配達に使ったりとか。江戸時代とかは裸足の人がほとんどで、位の高い方とか冬の間とかしか、足袋を履くことができなかったと言われています。もともと足袋は、平安時代に中国から伝来して、鹿革でできていたんです。足を怪我から守るとか、防寒のために、位の高い方がお履きになりました。一般の人が履くようになったのが、江戸の終わりから大正、昭和の時代ですね。

林:大野屋さんがミシンを導入して、足袋の民衆化をされたんでしょうか?

福島さん:そうですね。あと新富座っていう芝居小屋が近くにありまして。そこや歌舞伎座の役者さんたちがうちの足袋をご贔屓にしてくれたんです。ミシンを導入した福島福太郎という五代目は、宣伝上手でして。『舞へば足もと 語れば目もと 足袋は大野屋新富形』なんてこれ、都々逸なんですが、こういう都々逸で宣伝したりとか。

林:うわー。

福島さん:この新富形というのは、底を細めに作って上から包み込むようにすることで、足が細く見えます。

林:なるほど。デザインに工夫があって特徴が出るってことですね。

福島さん:それから、それまで誂えがほとんどだったのを、5ミリ刻みの文数で、レディメイド、いわゆる出来合いの足袋を作り出して。それをまた4種類に細分化したんですね。「細」「柳」「梅」「牡丹」というふうに呼んでいます。「細」は細め、「柳」はちょっと細め、「梅」はやや甲高、「牡丹」は特別に甲高で足首が太い形です。

足首が太くて甲高な人に「この形は幅広甲高です」とは言いづらいんですよ。それを「梅形ですね」とか、「牡丹形ですね」と言う、そういう工夫もしたりして。アイデアマンだったんでしょうね。

林:めちゃめちゃアイデアマンですね「甲高いですね」はともかく「足太いですね」っていうのはね。

福島さん:特に女性には言いづらいですよね。そういうことを考えたのは先々代だと聞いています。

今の建物もその五代目と四代目が作ったんですが、瓦は名古屋三河から、柱は京都から、と日本各地のいい素材を集めて、こだわって作ったみたいです。

林:を集めたんですね。

福島さん:建具屋さんに「こんなの今じゃなかなかできないよ」なんて言われることもあって……。住んでいる私たちは全然わかってないんですが、有形文化財にも指定されまして。

林:そうでしたか!

福島さん:そんなこともあってなるべく昔のものをそのまま残していけたらいいなと。仕事に関してもやり方をあまり変えず、手を抜かず丁寧に作ることを残していけたらと思います。社員にも常に言って、自分も心がけています。

ただ、生活様式も変わってきていますし、平均身長も高くなったりしているので、変化はあります。足も細くて長い方が多くなったりとか。最近の歌舞伎役者さんなんかも、シュッとした方が多いですね。

林:五つ目の形を作らないといけないかもしれないですね。

福島さん:千差万別ですが、全体的な傾向として、平均身長が高くなったのと同じように、シュッとした方が多くなった感じはします。

林:そうですね。時代の移り変わりがわかってきますね。

福島さん:でも、ありがたいことに、おばあさまからお嬢様、またお孫さんの三代にわたって大野屋を使っていただいている方もいます。型紙を見ると、50年以上前からのお客さまも結構いらっしゃるんですよ。過去に作ったものより悪くなったと言われないように、とっても良かったと言ってもらえるように、きっちりした品物を作り続けていきたいです。

林:そうですね。お着物とか、代を超えて引き継いでいけるものがありますからね。おばあちゃんが「私、若いころ大野屋さんで足袋買ったのよ」なんて言ってお孫さんを連れてきてくれたらめちゃめちゃ嬉しいですよね。ところで、家族で足の形は一緒だったりするんですか?

福島さん:すご似ていることもありますし、全然違うパターンもあります。

 

林:でも三超えてというのは、いいですね。代々働いてくれてる方がいるから、お客さまのほうも久々に来ても「まだやってるんだ」と思えますよね。

福島さん:本当に、私が生まれていないころから60年ぐらい働いてくれる方もいますからね。お客さまとのつながりが違いますよね。

 

世代を超えて愛されている「大野屋總本店」の足袋。その理由は一つひとつを心込めて作る、丁寧な仕事ぶりにありました。お店にはなんと200年前から使っているミシンもあるそう。商品だけではなく、それを生み出す道具にも愛情を注ぐ。そんな姿勢がすべてを象徴しているようです。

後編へ続く

※この対談を動画で見たい方はコチラ

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