Tokyo

11/05 (火)

明治10年創業、いなり寿司の名店「人形町志乃多寿司總本店」。長く愛され続ける味の秘密

さっと片手でつまんで食べられる“粋“な食べ物、いなり寿司。明治10年創業のいなり寿司の名店「人形町志乃多寿司總本店」は、その味を長年にわたって守り続けています。世代を超えて愛される味を守り続ける一方で、運営方針は時代に合わせて柔軟に変化しているのだそう。五代目のご当主・吉益敬容さんにお店の歴史とこれからのことについてお話を伺いました。

明治時代から「デリバリーサービス」を取り入れていた

本日は人形町志乃多寿司總本店五代目ご当主の吉益敬容さんにお越しいただいております。早速ですが志乃多寿司さんのご紹介をお願いできますでしょうか。

志乃多寿司は1877年に創業しました。明治維新によって武士という職業がなくなり、失業してしまった初代が好物だったおいなりさんを屋台で売り歩いたのが始まりです。『志乃多』の名前の由来は、歌舞伎『葛の葉子別れ』の舞台である“信太(しのだ)の森”にあります。作中には狐が登場しますが、狐といえば油揚げ。油揚げといえばいなり寿司という連想から“しのだ”を店名に付けたとのことです。

お稲荷さんを信仰されている方が志乃多寿司のいなり寿司を買ってお供えするみたいな話もあるそうですね。そういった由緒のあるお店でございます。では、吉益さん自身のご経歴を伺ってもいいですか?

私自身は五代目にあたりますが、元々は老舗の跡を継ぐという意識があまりなく、20代後半までは放送業界で働いていました。28歳の頃に戻ってきて現在に至ります。

全く違う業界から家業を継がれたんですね! 志乃多寿司さんの家訓というのは何かあるのでしょうか?

とくにないです(笑)。家業を継ぐも継がないも、やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなくていいよという感じ。僕も自分の息子にはそう伝えようと思っています。

 

長く続いている老舗さんは、そういうお話をされる方が意外と多いですね。初代から現在に至るまでいろんなイノベーションがあると思いますが、何かエピソードはありますか?

初代はすごく新し物好きだったみたいです。電話も自転車も普及してきたタイミングですぐに取り入れて、今で言うデリバリーサービスを明治40年くらいから始めていたようです。当時の写真にも記録として残っていますね。

 

めちゃめちゃ最先端だったということですよね! その頃の商品ラインナップとしてはどんなものがあったんですか?

最初はおいなりさんから始まって、戦前まではおいなりさんとかんぴょう巻きだけだったんです。今のようにバリエーションが増えたのは戦後になってからですね。

そうですか。当時はおいなりさんがすごく人気だったというお話を伺ったのですが、どういった方々が楽しまれていたのでしょうか?

今は明治座さんしか残っていないのですが、もともと人形町は芝居小屋や寄席がたくさんあった街なんです。そのため、観劇の前にちょっとおいなりさんを食べて行く人が多かったと聞いています。

サクッと食べて芝居でも見に行くか! っていう江戸っ子の魂みたいな感じですね。ファストフードのようなスピード感もあって、当時の明治座ですごく流行ったんでしょうね。かんぴょう巻きはいつから始まったんですか?

三代目の頃ですね。高度成長期にのって、業務をものすごく拡大した方です。昭和40年代の頃は30店舗以上あったと思います。この頃、押し寿司や茶巾寿司といったラインナップもどんどん増やしていきました。一時期は、人形町本店の1階が江戸前寿司、2階が日本料理のお店だったこともあります。

えー! 日本料理もやっていたことがあるんですね。それは知らなかった。多角化経営を目指したのが三代目だったんですね。三代目は吉益さんのおじいちゃんに当たるわけですよね。お話をした機会は結構あるんですか?

一緒に働いたのは半年ほどですが、小さい頃はよくお店に遊びに行って話も聞いていました。三代目、四代目は現場には入らないマネージャーみたいな感じでしたね。

なるほど。五代目である吉益さんの世代になってからも、色々と新しいことをやってらっしゃいますよね。

家業を継ぎ、まずは「事業整理」に着手することに

別業界から志乃多寿司に戻ってきてまず実践したのは、あまりにも広げすぎて収拾がつかなくなっている事業を畳んでいくことでした。大阪、広島、長野にもお店があって、それぞれの店舗のものを食べてみると東京と味が違うんですよ。「何でこんなことになってるの?」と聞いたら、東京の酢飯の味は関西の人に合わないからだと。それで地方のお店は畳むことにして、目の届く範囲内でやっていくことを決めました。

これはかなりご英断だと思うのですが、整理するのも大変だったんじゃないですか?

お店を減らすということは、人も減らさなきゃいけないし、納入業者さんにとっても扱う量が全く変わってしまう事態ですからね。でも頭を下げて「僕にはできません」というスタンスを貫きました。結果的に売り上げは10分の1くらいになりましたが、利益はそんなに変わってないんですよ。

うわー、それは衝撃ですね! 老舗の皆様からも「事業と屏風は広げすぎると駄目だ」という話をお聞きすることがよくあるのですが、吉益さんから見ても少し広げ過ぎじゃないかと思う部分があったんですね。就任してすぐ業務縮小に取りかかったそうですが、何年ぐらいかかりましたか?

4~5年かけて段々縮小していきました。社長になったのが戻ってきて2~3年経った頃ですね。

名店「人形町志乃多寿司總本店」には、事業を整理した過去もあるという驚きの事実を知りました。そうして今日まで続いてきたお店を守るため、ご当主が「絶対に変えないもの」とは? 後編で迫っていきます。

後編へ続く

※この対談を動画で見たい方はコチラ

 

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