【東京文学散歩】第3回:早稲田界隈。夏目漱石と早稲田大学、近代文学と文化の香りをたどる旅

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第3回:早稲田界隈。夏目漱石と早稲田大学、近代文学と文化の香りをたどる旅

夏目坂夏目漱石大隈記念講堂尾崎紅葉島村抱月早稲田大学村上春樹演劇博物館

古典から詩歌、エンターテインメントまで、東京には文学にまつわる場所がたくさんあります。作品の舞台だったり、作品に盛り込まれた地名だったり、作家の住居跡だったり、文学上重要な運動が発生した場所だったり……。そうしたいわゆる“聖地”を書評家/ライター/文学系YouTuberの渡辺祐真(スケザネ)さんにセレクトいただき、ご紹介するコーナー。

スケザネさんの文学系スポット解説と、実際に街巡りをした現地レポートを合わせてお届けします。
今回は、早稲田界隈を巡ってきました。

渡辺祐真さん

書評家、書評系YouTuber

早稲田駅からすぐ、夏目漱石生誕の地と「夏目坂」

「早稲田」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは「早稲田大学」である。とくに、早稲田がもともと東京の地名であって、そこから大学が名付けられたことを知らない筆者のごとき地方出身者にとってはなおさらだ。
だが、今回のスタート地点となった東京メトロ東西線早稲田駅から真っ先に向かったのは、駅前の「やよい軒」であった。Googleマップによると駅から約48m、徒歩1分。そこが「夏目漱石生誕の地」なのだそうだ。跡地には石碑が立つ。

そして、「やよい軒」前を南に延びる坂道を「夏目坂」と呼ぶらしい。

夏目漱石の随筆『硝子戸の中』には「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない」とある通り、夏目家が住んでいたことから名付けられた坂。
夏目坂46という、早稲田大学のインカレ坂道系コピーサークルも存在する。

坂道を登りはじめてすぐ「そうせき」という名の居酒屋があった。また、漱石生誕の地に建つマンションには、きわめて唐突に「夏目漱石」の名が。

何の説明もなくポツンと「夏目漱石」しか書かれていない。一見すると意味がわからない気もするが、間違ってはいないのだ。何せここは漱石生誕の地なのだから。

「早稲田大学」は文学と建築のテーマパーク!

そして早稲田大学へ。馬場下町交差点を横断し、早稲田大学南門通りをぶらぶら歩いて行く。北向き一方通行で、道路も歩道もやや狭めなこぢんまりした商店街。受験シーズンだったため、通りの街頭には、受験生を激励するための塾のフラッグが掲げられていた。

漱石愛があふれる漱石山房記念館と公園

早大正門から西に早大通りがまっすぐ伸びている。「闊歩する」にふさわしい、美しく心地いい通りだ。片側二車線の車道と並木が植えられた中央分離帯、広い歩道に、電線は地中に埋められている。仙台・青葉通レベルに、歩いて気持ちいいストリートなのに、早大出身者によると「こっちはあまり使わない」らしい。ここまで整備されている背景が謎すぎる素敵な通学路だ。
ここから次に目指すのは、「新宿区立漱石山房記念館」。マップによると片道1km少々あるので、どうしても流れで行く必要はないが、今回はここを目指していく。早大通り以降の道中は正直、特に面白くはない。だが、「新宿区立漱石山房記念館」、非常に漱石愛にあふれたスポットだった。

夏目漱石が、人生のラスト10年ほどを過ごし、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの作品を書いたのが(すげえ!)、この地にあった「漱石山房」と呼ばれる住居だった。

漱石は、早稲田で生を受け、早稲田で教鞭をとり、早稲田で没した。
愛媛県への赴任や英国留学など、早稲田を離れていた時期も長いが、再び早稲田で暮らすようになったのは、明治40年。朝日新聞社の小説記者として歩み始め、「虞美人草」を書き上げた頃のことだ。
そんな漱石のもとには、朝日新聞の関係者や作家、学者などが集い、その面会日は木曜日とされていたことから、会合はやがて「木曜会」と名付けられた。内田百閒、寺田寅彦、野上豊一郎、和辻哲郎、芥川龍之介、久米正雄など錚々たる顔ぶれである。
欧米では文学者や芸術家が集い、交流を持つ場を「サロン」と呼び、有名なものではマラルメ、モネ、ルノワール、ドビュッシーらの火曜会などがあるが、日本での草分け的存在と言えるだろう。

記念館内は「漱石山房」を模した建物が設えられ、記念館の隣には「漱石公園」がある。ここには訪れた人が自由に投句できるポストを備えた「道草庵」というモノもある。なんだか非常に漱石愛を感じさせてくれる場所であった。

尾崎紅葉・鏑木清方の旧居跡、矢来能楽堂……文学と文化が集中するエリア

漱石山房跡から目指したのは、漱石よりも1歳年下の明治の小説家・尾崎紅葉の旧居跡である鳥居家。改めて調べてみると、漱石は49歳で亡くなっているけれど、尾崎紅葉はずっと若く35歳で生涯を閉じたのであった。ちなみに読売新聞に連載されて大ヒットとなった『金色夜叉』を書いたのが、この鳥居家である。

明治維新後、日本が近代化を進めていく中で、文学も欧米の作品を見習って近代化が図られた。
はじめは過度に政治的だったり、海外の作品をほぼ改変に近い「翻訳」として紹介するなど、暗中模索だったが、明治20年ごろになると、坪内逍遥『小説真髄』や『当世書生気質』、それに続く二葉亭四迷『小説総論』、『浮雲』など、理論と実作の両面で成果が上がるようになった。
そうした基礎が整ったあたりで、時代を切り開いたのが尾崎紅葉と幸田露伴だ。対照的な作風で、文学の可能性を一気に押し広げたことから、明治20年代のことを二人の名を冠して「紅露時代」と呼ぶこともある。
正にその頃、紅葉は牛込の地に住むようになり、代表作であり遺作の『金色夜叉』もこの地で書き始められた。「初冬やひげそりたてのをとこぶり」「はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな」という紅葉がふすまの下張りにした句が残っている。

戦災で焼失し、当時の建物ではないとはいうものの、古き良き佇まいがある。ただ、ごくごく普通の住宅街なので、散策していると、100%見逃す。だって、このゲートの向こうに、尾崎紅葉が住んでいたなんて、絶対気づかないでしょう?

ここに至るまでには美人画で名を馳せた日本画家・「鏑木清方旧居跡」(現・新宿区立矢来公園)があったり、矢来観世家・観世九皐会の本拠地である「矢来能楽堂」があったりと、なぜか文学のみならずジャンル横断的にアートに携わる人々が好んで住まうエリアだったりするのであった。
「矢来能楽堂」は都内で2番目に古い能楽堂として、今も定期的に公演が行われている。そうした、アートの香りに満ちあふれた地域にふさわしく、最後の目的地は、その名も「芸術倶楽部」跡地。

近代文学を学ぶと、小説、詩、そして演劇などの境目がないことに驚かされる。
島村抱月は劇作家、小説家、詩人、評論家など、多彩に活躍し、明治・大正時代の文学をけん引した一人だ。
愛人であり女優の松井須磨子とともに、芸術座を創設。その拠点を芸術倶楽部と呼ぶ。
芸術座では、トルストイ『復活』に範をとった作品が大当たりし、経済的にも劇団を支えつつ、芸術的な研究を究める劇も上演するなど、「金と芸術性」の両立を図った。
1918年にスペイン風邪で死去。それが芸術倶楽部の居室だったため、抱月終焉の地としても知られる。

島村抱月の死後、後を追って松井須磨子も同じ場所で自ら命を絶ったことはよく知られている。その生涯は映画や演劇や小説でも数多く描かれてきた。粗野なブロック塀で囲まれたアパートに、そんな過去や背景がある。知らなければ知らないまま通り過ぎてしまう。でもちょっと知っていれば、なんでもない風景にドラマが宿るのもまた、文学散歩の魅力なのかもしれない。
取材・文:武田篤典(スチーム)
写真:大久保 聡
文学作品解説:渡辺祐真

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