【第11回】江戸時代に生まれた「かけそば」の起源

芝大門 更科布屋 店主の独り言 更科そば 蕎麦

「天ぷら」「そば」「寿司」「うなぎ」は、江戸を代表する「食」と言われ、それぞれが江戸の庶民文化の中で培われてきました。このコラムでは、そば店の店主として、そばにまつわる面白い話や、一般的には知られていないそばにまつわる意外な事実などをお伝えします。そば文化をより知っていただくきっかけになれば幸いです。※当コラムは「芝大門  更科布屋」の店内で、月に1話、お客様に配っているリーフレットから転載しております。

江戸中期に定着した「かけそば」

秋冬は蕎麦屋が一番季節物に気を遣う時期です。
「松茸」「牡蠣」などの際物(きわもの)と言う短期の種物も含めてバリエーションが広がります。と言った訳でその種物のベースとなる「かけ」のお話を少々。
そばの実を茹でたり蒸したりして食べた「粒食」、その実をつぶして粉にして食した「粉食」を経て、お蕎麦が今のように麺の形になったのは江戸時代の始め1600年頃と言われております。そのころは「蕎麦」と言えば「もりそば」のみで、「かけそば」や「種物」はありませんでした。
蕎麦は全て冷たいもので汁につけて食べていました。
お蕎麦は元々軽い食事、小腹を満たすファーストフードとして江戸時代の中期以降庶民の中に定着、広く食べられることになり、それによって色々な食べ方が生まれていくようになりました。その一つが「かけそば」となります。

「かけそば」から広がる蕎麦メニュー

当時から江戸は世界に冠たる100万人都市で、種々雑多な職業の人がおりました。
中でも忙しく働く力仕事の若い衆達は、急いで食べてお腹を満たす必要性に駆られます。
江戸っ子の短気な気性も重なり、いちいち汁につけて食べるのを面倒くさがった江戸っ子は、猪口に入った汁を蕎麦を盛った皿やどんぶりにぶっかけて食べたと言われています。余談になりますが、当時のもりそばは皿に盛られていたようです、古い錦絵などにはこの皿そばが多く描かれております。はじめから現在のような「せいろ」や「ざる」に盛られていたのでは、「かけ」は生まれなかったかも知れません。
という訳でこの汁をじかに上からかけたそばは「ぶっかけそば」と呼ばれました。
品のない食べ方と小馬鹿にもされましたが、とにもかくにも蕎麦屋の正式メニューとして「冷やかけそば」が誕生することとなりました。 「ぶっかけ」が「かけ」と変化した訳であります。
春・夏・秋はこれで良いものの、冬はやはり寒いのです。温めた汁をかけろと言うことになるのは当然です。
今までにない食べ方が、今までにない温かい蕎麦「かけそば」も生み出すこととなりました。
自然の流れと言えば話は早いのですが、庶民に根付くことによって、今までとは比べものにならない位の人々に食べられ、その状況による食べられ方の変化がお蕎麦を進化させてきたと思います。
その進化が「おかめ」「玉子とじ」「花巻」「あんかけ」「鴨南蛮」と言うおなじみのメニューの起爆剤となり、江戸時代に多くの工夫を凝らした「種物」が発明されました。
この進化はさらに明治・大正・昭和と受け継がれ、「カレー南蛮」「天ぷらそば」など、次々と正式メニューの幅が広がっていくこととなりました。 今後もどんなアイデアが付加されどんなメニューが出来るか楽しみな限りです。

この記事を書いたのは…

寛政3年(1791年)、薬研堀(現在の東日本橋)で創業。大正2年(1913年)から増上寺門前にお店を構えるそば店「更科布屋」の7代目ご当主。芝の地で創業100年以上の伝統を有する老舗の会「芝百年会」の会長も務める。
更科布屋ホームページ

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